施設長コラム「つれづれ草」(平成22年)

●平成22年12月

 年の瀬が間近になると山々の木々の葉はここ10日ばかりの間に急に色づき始めた。また街路樹の銀杏の葉は黄金色に染まっていった。季節の営みが今年もあった。この地で働き始めて6年が経った。知らぬ間に自然に囲まれた津久井に居心地の良さを感じるようになっていた。
 仕事に就いた当初は知識を得ようと度々東京まで研修を受けにいった。講師の話が新鮮に聞こえた。それがいつしか、研修の案内を見ても心が動かなくなっていた。今の知識で事足りそうな気がした。電車を乗り継いで都会まで行くのが億劫だった。
 先日、私は久しぶりに東京で研修を受けた。認知症の研修だった。勉強になることが多かった。現状で満足していた自分が恥かしかった。
 還暦を過ぎて、最近時間の大切さを肌で感じるようになった。年老いて尚、読書に明け暮れていた母の姿が浮かんだ。残された時間に少しでも新しい知識に触れたいと思った。
 そうすれば青春と繋がっていられそうな気がした。

●平成22年11月

 志賀直哉は昔から好きな作家の一人で、特に「城の崎にて」が気に入っていた。淡々とした短い文章の積み重ねが好きだった。飾りの無い表現が好きだった。
 ふと読み返してみたくなり、高校生の頃買い求めた文学全集から一冊を取り出した。活字を追っていると、辺りの風景が水墨画を観るかのように伝わってきた。更に志賀直哉の清潔感に富んだ人となりも伝わってきた。その文中には、作者が交通事故にあったため養生に来た土地で偶然生き物の死に直面したことから、命の神秘さに思いを馳せる過程が綴られていた。
 読書の秋にふさわしい数日を過ごして、私はとてもすがすがしい気持ちになった。続けて他の本も読もうと思った。しかし、全集は80冊あり一度も開いたことがない本が数多くあった。おもわず読み終わるまでにどのくらいかかるかと指を折って数えてしまった。
 その時、何十年も昔「今勉強しないと光陰矢の如しだよ。」と母に言われた光景が脳裡をよぎった。

●平成22年10月

 野口英世は児童文学書等で「偉人の代表」ともされている。貧困と幼い頃の左手の負傷という二重の試練を乗り越えて医学の道に進み、アメリカのロックフェラー医学研究所に勤務した。そこでの業績はすばらしく、世界的な細菌学者となった。
 実際2度ノーベル賞候補になっているしロックフェラー大学の図書館入口には彼の胸像がある。そして千円札の肖像画にあるように彼は今でも日本人にとって国民的ヒーローである。しかしアメリカでの彼の評価はまったく異なっている。黄熱病、ポリオ、狂犬病等の研究成果は当時こそ高い称賛を得たが、今日多くの結果は矛盾に満ちたものと否定されている。勿論、立派な業績も残している。唯、借金による放蕩で乱れた生活を送っていた時期もあったようだ。
 野口英世に対するイメージは崩れたが、彼の中に人間的な泥臭さを感じた。そこに親しみを覚えるのは私自身が歳を重ねたせいかもしれない。
(参考「生物と無生物のあいだ」福岡伸一)

●平成22年9月

 8月も後半になると青空の一角にうろこ雲を目にすることがあった。確かに早朝のひんやりとした空気は秋の訪れを感じさせてくれた。しかし、日中になると真夏の日差しが降り注いだ。昨年の冷夏とは反対に猛暑が延々と続いた。新聞には熱中症の被害を伝える記事が毎日掲載された。
 地球温暖化との因果関係は不明だが、赤道域で海面水温が低くなる「ラニーニャ現象」により太平洋高気圧が勢力を強めていることが原因とのことで、世界的な異常気象の一側面であることに違いはない。
 こうした地球規模でのバランスの変化は生物の生態系に影響を与え始めている。今まで生物は環境の変化に対して、新たな適応力を身につけながら種の維持・発展を遂げてきた。加えて、多剤耐性菌や新型ウイルスの出現など多くの問題が危惧されている。果たして人類は、その英知により今後も繁栄していけるのだろうかと疑問に思えてしまう。

●平成22年8月

 改正臓器移植法が7月17日から全面施行された。
 今回の法改正によりこれまでの年齢制限がなくなり、15歳未満の子供からの臓器提供が可能になった。また、脳死となった本人の意思が不明でも、生前に拒否の意思を表示していない場合、家族の承諾だけで臓器提供が可能になった。
 この改正は臓器提供を受ける側及び移植手術に前向きな人々には朗報だが、主体であるべき提供する側(家族)への配慮は十分なされているのだろうか。また脳死判定は、臓器提供の場合にのみ行われるので、今までどおりの医師の確認(三兆候死)による死とは時間的に差が生じる場合がある。このことは相続問題で法的争いが生じる恐れもある。
 死の捉え方は、それぞれの宗教観や文化・歴史等によって異なっている。それ故、この法案の審議に先立って国民に「死」の定義を求めても良かったし、もっと多角的な視点からの議論が必要だったのではないだろうか。

●平成22年7月

 指折って数えれば77年前の事でした。私は小学校5年生、中学校1年生の兄は八王子の米屋の2階に下宿していました。
 たまたま父に連れられ尋ねた時のことでした。勉強が好きで、難しい本を読んでいた兄は突然「ドイツへ行って哲学の勉強をしたい。」と抱負を語りました。当時の私にとっては「ドイツとは万里の果て」仰天の思いで「ドイツへ行っては否いや」と泣き叫んだのを鮮明に覚えています。
 幼少の頃より病弱だった兄を母が手離す筈もないし、父も晩年を迎えていたので、家を守るため運命に従い学問の道を諦めた様でした。その兄が財を投じ、手狭ながら此処に老人ホームを建設したのは昭和57年。その結果多くの方に喜んでいただき、兄も本望だったと思います。
 残念ながら学問の道へは進めませんでしたが、充分に孝行を尽くした上、世の片隅に於いて郷土に生きた証を残し得た事は、妹ながら立派だったと懐かしみとともに深く尊敬いたしております。
(この作品は創設者中村幸蔵の妹、井上サイ(私の母)が平成13年(87歳)の時書いた作品の抜粋です)

●平成22年6月

 先日職場の同僚が花の咲いた小さな植木鉢を頂いてきた。名前はわからないが、とても可愛らしかった。5枚の葉っぱに囲まれた真ん中に紫の花が3つ、そして蕾が1つあった。
 私は同僚とともに育てることにした。毎日根を枯らさない程度に水を与え、蕾が開花する日を待った。しかし、二週間が経っても花は咲かなかった。「陽があたらないせいかな?」と考えた二人は、柔らかな陽のあたる日を選んで外に出してみた。それでも花は咲かなかった。
 ある日、カーラジオにスイッチを入れると光触媒を施した造花の話が流れていた。浄化や抗菌の効果があり、その出来栄えは本物と間違える程とのことであった。次の日、念入りに花を調べた。葉脈がなかった。臭いもなかった。そっと花弁に触れてみると明らかに布地の感触がした。
 騙されて不愉快な思いをすることは数多くある。しかしこの花を眺めていると、思わず頬がゆるんでしまう。楽しい思い出としていつまでも心に咲き続けるに違いない。

●平成22年5月

 3月の下旬、鶯のさえずりとともに開花した桜は、その後の寒さもあってか例年になく花もちが良かった。お陰で花見の機会も多かった。桜は、万葉集にも詠まれているように、春を代表する花として昔から多くの人々に親しまれてきた。
 その代表的な桜に江戸後期に出現した染井吉野がある。染井吉野は「大島桜」と「小松乙女」の掛け合わせと言われているが、この木は種子では増えず、接ぎ木や挿し木等によって増えていく。つまり全ての木がクローンで同じ遺伝子を持っている。それ故染井吉野は同じ環境では同時に咲き、同時に散るといった統一性をもっている。その散り際の「はかなさ」「潔さ」を日本古来の武士道に喩える者もいる。
 桜の花に日本人の心を求めるのは極めて自然なことだろう。ただそれを「同期の桜」のように国家の体制作りに当てはめようとするなら、とても悲しいことである。
(註 小松乙女:エドヒガン系の桜)

●平成22年4月

 アメリカのある青少年刑務所では、犬とのふれあいにより犯罪者の更生を図っている。彼等は強盗や暴行、殺人等の罪により服役していた。多くの者は、幼少時に両親の離婚を体験し、親からの愛情は希薄だった。その為か居場所が見つからなかった。人間不信に陥っていた。
 そんな彼等に飼い主から放置されたり虐待を受けた犬があてがわれ、約3ヶ月かけて躾しつける取組が行われた。犬は当初、全く言うことを聞かず、なつくこともなかった。しかし愛情を持って世話するうちに、彼等の「お手」や「お座り」といった指示に従うようになった。犬との関係が始まった。
 犬の変化とともに彼等も大きく変化していった。我慢が出来るようになった。自らの存在を感じることができた。更に与えた愛情は自分に返ってくることを確信した。
 明るさを増していく彼等の表情は、人間の本質が「性善説」に基づいていることを示しているように思えた。

●平成22年3月

 中学生の頃の話である。グループで山登りしたことをきっかけに、Mさんという女性徒と仲良くなった。彼女は電車通学をしていた。私達はしばしば駅で待ち合わせ登校した。
 卒業式を間近に控えたある日の放課後、私たちは一駅難れた本屋さんまで歩いていった。目的の本を買い、暫くして彼女と別れた。その後私は電車に乗るために地下道を進んだ。すると壁際にアコーディアンを弾く傷痍軍人の姿があった。私はポケットの中から10円玉を取り出し、賽銭箱の中に入れた。帰りの電車賃であった。それは、その時持ち合わせていた全財産だった。
 私は二人で歩いた道を一人帰った。若葉の香りを含んだ春風をすがすがしく感じた。その時の情景は今も心に残っている。
 また、その10円玉は今も私の道標(みちしるべ)となっている。

●平成22年2月

 昨年来、新型インフルエンザの流行が危惧されているが、感染症との闘いは今に始まったことではない。
 私たちは過去にも、ウイルスや病原菌と様々な闘いを行ってきた。結核が不治の病と言われたのは、つい最近の明治時代の話である。
 20世紀初頭に発生したスペイン風邪では2,000万人以上の死者を、また18世紀のヨーロッパでは、天然痘により100年間に約6,000万人の死亡者を出した。
 おおよそ生命にとって、その種の維持・発展のためには環境への適応が求められる。その失敗は種の衰退・滅亡を招く場合もある。
 このことは人間とて例外ではない。しかし人間は科学文明の発達とともに次々に抗生物質やワクチンを開発し、対象物の撲滅に主眼をおいてきた。その結果多くの成果をあげることができたが、反面本来兼ね備えているべき環境の変化に順応する能力を失いつつあるような気がしてならない。この先今まで以上に強力なウイルス等の出現もないとは言えない。
 その時人類に明日はあるだろうか。

●平成22年1月

 たまたまお目にかかった方から「イエスに出会った僧侶」という題名の本を紹介された。
 僧侶になるべく大学に通っていた作者が、韓国留学中にキリスト教に入信し、やがて牧師になった経緯(いきさつ)が語られていた。折々の作者の心情に感動したが、仏教の入門書としても大変新鮮であった。
 今まで、漠然とした知識であった大乗仏教、小乗仏教について理解を深めることができたし、「法華経」や「般若心経」などの経典がお釈迦様の直接の言葉(仏説)ではないことも知ることができた。また、輪廻(りんね)転生(てんせい)の思想や帝釈天(たいしゃくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)といった神々がヒンズー教に由来すること、更にお釈迦様は死後の世界に言及しなかったと言う。仏教に関する私の常識が音をたてて崩れていった。
 常識の形成は受動的になりやすい。模索しながら能動的に常識を築くことも大切だと、改めて実感した。
(参考「イエスに出会った僧侶」松岡広和 いのちのことば社)
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