施設長コラム「つれづれ草」(平成23年)

●平成23年12月

 今から60年前25億人だった世界の人口は今年10月には70億人を超え、更に今世紀半ばには90億人に達すると予測されている。
 人類と類人猿が共通の祖先と分かれたのは500万年以上前の事だが、私たちの直接の祖先といわれる新人(現代型ホモ・サピエンス)の登場は約10万年前と言われている。
 その後、新人は瞬く間に世界各地に拡がっていったが、やがて氷河期を迎えると採集する動植物の減少により滅亡の危機に遭遇した。この危機を打破したのが農耕の始まりで、麦やイネ等の栽培により食糧問題を乗り越えた。そしてそれは定住生活を可能にするとともに再び人口増加へと向かっていった。
 さて、現在世界の穀物の総収穫量は約20億トンで、計算上は世界中の人々の食料需要を満たしているのに、現実には様々な事情により8億人もの人が飢えに苦しんでいる。これからの人口増加に際し食糧問題をどの様に解決していくか、エネルギー問題とともに新たな視点に立った人類の英知が必要とされることだろう。

●平成23年11月

 松本清張の「砂の器」が新しい企画でテレビ放映されることを知った私は、喜び勇んで予約の準備にとりかかった。
 私は彼の作品が好きで今まで数多くの作品を読んできた。歴史小説にはその時々の時代背景が詳細に織り込まれていた。終戦直後の社会の混乱を背景とした作品には、どろどろした生活のにおいが漂っていた。ずるがしこい生き方を批判的に描いた作品が多かった。また、犯行に至る経緯やその手口にも巧みな工夫がなされていた。「砂の器」においても犯行の手口は複雑で常識を超えたからくりが仕組まれていた。犯罪者の父が業病の持ち主だったことも作品を形作る大事な要素の一つだった。
 しかし、ドラマから作者の意図を感じ取ることはできなかった。原作にはない登場人物の可否はともかくとして、犯行の手口は平凡だった。犯罪者の業も伝わってこなかった。全てに不十分に思えた。「砂の器」と命名した作者の思いが伝わってこなかった。もしこのドラマを持って松本清張を評価する人がいたら悲しい気がする。

●平成23年10月

 第一次ベビーブームの中で育った私は、大学入試の際大嫌いな勉強を一年余分にすることとなってしまった。当時まわりの人から「大変だね。」と同情の言葉をかけられたが、当の本人には、それほど深刻さはなかった。幸い同じ境遇の校友が何人かいて、1時間ほどかけて東京の予備校まで早朝の電車に乗って通った。また真夏の昼下がりには湘南の海辺でコーラを片手に友人達と一時を過ごした。
 そうした中で「小林秀雄」の作品との出会いはこの上なく新鮮だった。難解な文章の理解にくるしむことが多かったが、作者の研ぎ澄まされた論評に感動を覚えることもしばしばあった。また、勉強の合間をぬって長編小説を読みふけったりもした。
 あの頃は新しい知識の修得に飢えていた。大学生になったらもっと本を読もうと思った。しかし入ってみると、ことの外時間はなかった。遊びの誘惑は全てに優先した。振り返れば後悔することも多いが、受験のお陰で計り知れない財産を得ることが出来たと思っている。

●平成23年9月

 マザー・テレサに関する書物は数多く出版されているが、 インド政府の高官だったナヴィン・チャウラが記した作品は彼女の人となりを余すことなく伝えていると思う。
 彼は当初行政の立場からマザー・テレサと出会ったが、接点を重ねる毎に彼女の人柄に惹かれて行った。そして神の呼びかけにより18歳でカルカッタの修道院についてより87歳で神に召されるまでの70年に渡る彼女の軌跡を記した本書を5年の歳月を掛けて作成することとなった。
 本書には、彼女が修道女となったいきさつや、神の掲示に従い一時(ひととき)もやすまず貧者の為に働き続けた姿が生き生きと描かれている。又本書には神の愛を伝える彼女の言葉が随所にちりばめられていて、それらはダイヤモンドのような輝きを放っている。
 今までに何度となく読み返しているが、人間関係に鬱陶しさを感じたり仕事に行き詰ったときに読むと、 爽やかな気持ちに浸ることが出来る。まさしく心の栄養剤といった本である。

●平成23年8月

 7月のある暑い日、打ち合わせのため午後から都心に行くことになっていた。私は仕事を早めに終わらせ車で駅に向かった。駅からは電車で行くことに決めていた。初めて訪れる場所なので、少し早めに施設を出た。
 暫くすると、「野菜直売」の看板を見つけた。時間に余裕があったので、買い求めようと農家の中庭に足を入れた。ほどなく離れの一室から高齢のご婦人が出てきて私の顔をしげしげと眺めた後、
 「どっかで見たと思ったら、旭ヶ丘の施設長さんでしょう。私はデイサービスでお世話になっていますよ。野菜は裏の畑に取りに行かせるから、部屋に上がってなさいな。時間が無いならせめて玄関に腰掛けて下さいよ。」
 と話しかけコップに冷たいお茶を注いでくれた。更に帰り際には冷麦まで頂いた。
 思わぬ長居をしてしまった為、昼食もそこそこに都心の人ごみの中を足早く約束の場所に向かったが、胸の中には婦人の温かいもてなしが残っていた。私は人情味に溢れた津久井の土地柄が大好きである。

●平成23年7月

 このホームの理事長に就任したのは、47歳のときだった。そして17年間経過した今、私の高齢者に対する見方は大きく変化した。当初、ホームの利用者と接しても、自分とは別世界の存在に映った。それが55、6歳を過ぎた頃からだろうか、年を経る毎に身近な存在になってきた。彼等の姿に自分の将来の姿を重ね合わせるようになってきた。
 平成16年施設長を兼務してから、ホームの機関誌に毎月短文を掲載をすることとなった。短い文章とはいえ原稿の締め切りに追われる苦しみを味わうこともしばしばあった。
 短歌を詠むことを趣味とした母は作品集を3冊出版している。その作品には母の人生の軌跡が描かれていて、私も人生の晩年を迎えたせいか、 若い頃には思い浮かばなかった作者の心情を詠み取る事ができた。それらの作品に触れていると、自分も人生の軌跡を形に残してみたいと思った。
 そしてこの事が私の人生の中で一番の贅沢にも思えてきた。

●平成23年6月

 原子力発電を進めるにあたって東京電力や国は絶対安全と言い続けてきた。
 私はその言葉を信じてきた一人だが、リスクマネイジメントはどこまで出来ていたのだろうか。今回の震災は想定外だったかもしれない。しかし自然災害だけに目を向けていれば十分なのだろうか。テロや戦争に備える必要は無いのだろうか。事故後の対応を見ていると不安が増すばかりである。
 又、風力発電や太陽光発電その他メタンガスの活用等原子力発電に替わるエネルギーの実用化は本気で検討されているのだろうか。その開発を阻害するような動きはないだろうか。
 通産省は10年ほど前から電力の自由化を目指し、発送電の分離を最終目標としてきたが現実には電力会社が独占的に所有している。こうした背景に「原子力利権」はないだろうか。今後のエネルギー政策は国民の命に繋がる一大事である。だからこそ、どの道を選ぶにせよ国民の合意の下に透明性を持って進めてもらいたいと願っている。

●平成23年5月

 東日本大震災の後に起きた福島第一原発の事故は、考えさせられる事が多かった。戦争により核の被害を受けた日本は、 その反省から明るい未来を目指して戦後復興に向かった。その過程で経済成長を遂げるにはエネルギー確保が急務であった。天然資源に乏しい日本はこの問題を原子力発電に求めた。
 結果として、現在日本では54基の原子炉が総エネルギー源の約30%を担っている。その間いくつかの事故があったが、 「安全」は確保されていると信じてきた。しかし今回、かつて原発の現場で働いていたある技術者のレポートを拝見し、 原発の実態と恐ろしさを知る事となった。そこには放射能の怖さを実感しているとは思えない国の姿があった。
 豊かで安心な社会を目指しそれを後世に伝えるべきなのに、私たちは悪魔に魂を売り渡してまでも単に生活の便利さだけを 求めていたのではないだろうか。そんな思いでいる私の耳に、初夏を伝える鶯の鳴き声が憂いを含んでいるように聞こえてきた。

●平成23年4月

 大地震の起きた3月11日夜8時、私は暗闇の橋本駅にいた。勿論JRは動いていなかった。駅前広場は人で溢れていた。町田方面に向かうバス停を探したが、皆目見当がつかなかった。私は暗闇の中を歩き始めた。冷たい風を浴びながら歩き続けた。信号機も消えていた。
 小一時間も歩くと右前方に明かりが見えた。その光は私に安らぎを与えてくれた。
 ストレスの解消に自然を求める事がある。確かに自然は疲れた心を癒してくれる。しかし文明の象徴ともいえる電灯の明かりをみてほっとした。文明との付き合い無しには生きていけないことを実感した。
 日ごろの生活を思い返してみても、文明の恩恵があまりにも多いことを改めて知らされた。そして、私たちが接する自然には文明の手が入れられていて、本来の自然とは縁遠いものだと痛感した。20世紀初頭ニーチェは「神は死んだ。」と叫んだが、謙虚さを持ち続けるためにも神に存在し続けてほしい心底から願った。 

●平成23年3月

 学校へ行こうとランドセルを背負って玄関を出ると、雪がいっぱい積もっていました。その雪は庭の木の葉っぱにもいっぱいかかっていて、どの葉っぱも重そうに垂れていました。私は手で雪を払ってあげました。でも高いところの葉っぱまでは届きませんでした。しかたがないので、私は冷たくなった手に息を吹きかけながら学校へ行きました。お昼過ぎ授業を終え帰宅した私は、急いで木を見ました。すると温かい日差しのお陰で葉っぱの雪は全部とけていました。私のしたことは何だったのかなと思ってしまいました。
 この話は社会人となったAさんのあどけない昔話しである。この話を思い出す度に絡(から)まった毛糸が解(ほぐ)れていくような心地良さを感じる。
 幼い頃には誰とはなく持っている自然の営みに敏感で純粋な心も、大人になると消えてしまいがちである。でも心の片隅には残っているに違いない。そうした気持ちを大事にして日々生活していけたらと思っている。
推薦図書「人は成熟するにつれて若くなる」(ヘルマン・ヘッセ)

●平成23年2月

 スラックスを買い求めに行きつけの洋服店を訪れたのは、半年前の7月の事だった。馴染みの定員の「少し太りましたね。サイズを変えたほうが良さそうですね。」という言葉がきっかけで、私はダイエットを志すこととした。何よりも手持ちのスーツが着られなくなるのが怖かった。週一回のジョギングに加え毎日腹筋運動を繰り返した。
 3ヶ月経つと少しばかり効果が現れ始めた。満足した私の視点は、今度は健康食品に向かった。新聞の広告欄がやたらと目に入った。「老化を防ぐ・・・」という言葉に 心が揺らぎ健康食品をいくつか買い求めた。死ぬのは怖くないけど、認知症になるのが怖いと言う人がいる。私にとっては死ぬのは怖くないけど、病気になるのが怖いといった心持だった。
 秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めたという。そこまでの熱意は無いにしても、藁(わら)を原料 にした健康食品があったら購入しかねない。そんな思いで新年が始まった。

●平成23年1月

 久しぶりの休日のことだった。炬燵でくつろいでいると、居間の片隅におかれた一冊の本が目にはいった。5年前亡くなった母が作った歌集だった。その本は前からそこにあったが、気になることはなかった。
 だが、この日に限って、その本は何か語りかけているように見えた。あとがきの一部には「おのずから日誌代わりの次元の低い作ですが、生きた証として孫子に遺して置きたく第三歌集「紺の実」を編みました。・・・」と書かれていた。私は大事な役割を忘れていたことに気づいた。母に申し訳なく思った。
 子供達の幸せを第一に考えて人生を終えた母の姿が浮かんできた。少しでも早く私の子供や孫に手渡せねばと思った。
 歌集には折々の生活で感じたことや家族のこと等が詠まれていた。そんな中で最後の行の句 「ひとり蒔きひとり眺めし朝顔の花の終わりを今日は束ねぬ」は晩年独居で暮らしていた母の心情が真っすぐに伝わってきて思わず涙ぐんでしまった。
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