施設長コラム「つれづれ草」(平成24年)

●平成24年12月

 結婚式の2ヶ月程前のことだった。母は私に向かって「決して相手の両親の悪口を言ってはいけませんよ」と言った。日頃から他人の悪口を言わない母だった。母の経験から出た言葉だった。子供の頃から母のつらい姿を見て育った私はこの言葉を守った。
 私はたまに披露宴のスピーチを頼まれると「常識について」話すことを好んだ。要約すると「常識を辞書でひくと誰でも当然に持っているはずの知識や判断力と載っているけど、結婚すると今まで当たり前と思っていたことが当たり前ではないことに気付くでしょう。愛に満ちた家庭を築く為にも一日も早く二人だけの常識を創り上げてください」といったところである。
 様々な常識は多様な文化を生み出し、日常生活に膨らみと奥行きをもたらしてくれる。そして互いに他者の常識を受け容れ合うことは、自らの成長を促すとともに豊かな人間社会へと繋がっていくように思える。そこに人類繫栄のヒントがある気がする。
 果たして私は社会に通用する常識を身につけてきただろうか。そう考えると少し不安な気持ちに陥ってしまった。

●平成24年11月

 小春日和のある日の午後、私は公園のベンチでポテトチップを口に運んでいた。太陽の光はとても柔らかく暖かい空気が体全体に溶け込んでいった。日頃の仕事の煩わしさはいつしか消えていた。お日様の有がたさを改めて実感した。ほんの少し前まで照りつける太陽の暑さを厭わしく思っていた自分が勝手に思えた。
 さて、はるか昔約50億年前に出来た太陽は新幹線の2,700倍程の速さで時計とは反対回りに約2億年かけて天の川銀河を回り続けているという。一周するのに約2億年かかるが、地球も誕生以来太陽に連れられ楕円軌道を描きながら22、3周してきたらしい。その間、太陽の光が届きにくくなる特定の場所を通過すると、寒冷期あるいは氷河期を迎えるとも言われている。一つの仮説ではあるが、このことが生命の進化や滅亡に大いに関係しているかも知れない。最近CO2による地球温暖化が話題となっているが、地球の未来は私たちの意志や努力を超えた次元の違う話にも思えてしまう。だからと言って、何もしないで良いという訳ではないが。
 そんな思いでいると、日差しの柔らかさがいつにも増して有り難く感じた。

●平成24年10月

 東日本大震災から1年半、節電のせいもあってか今年の夏は取り分け暑かった。
 9月になっても夏が留まっていた。入道雲が青い空に溢れていた。蝉の声を聞くこともトンボを見ることも少なかった。そんな季節にそぐわない情景に不安を感じた。しかし、お彼岸を間近にすると暑い日差しにも柔らかさを感じることができた。朝晩には爽やかな風が肌をすり抜けて行った。いつしか空も高くなっていた。青空の中に鰯雲を見つけるとほっとする自分がいた。
 澄み切った空を眺めていると、日食や月食の観測に夢中になった少年時代が懐かしく思えた。丁度「人はどこから来てどこへ行くのだろう?」と考え始めた時期だった。それから何十年も経ったが、今も答えに出会っていない。
 空を眺め続けていると、青空の向こうにその答えが隠されているように思えた。

●平成24年9月

 8月19日(日)の朝、神田駅のガード下の喫茶店にはモーニングコーヒーを注文する私がいた。隔週の日曜日、臨床心理の学校に通い始めて5ヶ月、授業前にこの店に立ち寄ることがあった。酸味の効いた味が気に入っていた。昔から好きな味だった。卒業を間近にしこの店のコーヒーを口にするのも最後に思えた。スプーンに砂糖をとると、昔の情景が浮かんだ。恋人のコーヒーカップに砂糖を入れる私の手は緊張のあまり小刻みに震えていた。青春時代の思い出の一つだった。
 そんな時から45年、今私は前にも増して青春を追い続けたい気持ちに駆られている。すがりついていたい気持ちといった方が正しいのかもしれない。「過去を振り返り始めた時が青春とのお別れ」という活字を目にした事がある。合点のいく言葉だが、最近何かを求め続ける事も青春の条件ではないかと考えている。
 自己流の解釈だが、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と述べた孔子にとって、死を可とする日などあろうはずがなかったのではないだろうか。

●平成24年8月

 ふとしたことがきっかけで、今年の4月からカウンセリングの勉強を始めることにした。月に2回、日曜日の午後東京の神田まで通うこととなった。
 はるか昔、周辺の予備校に通っていた私にとって、神田には特別の思いがあった。街のあちこちに青春時代の思い出が眠っていた。
 そんな一つにガード下の珈琲店があった。モーニングサービスの看板に促され店内に入った。私と同年代とおぼしきマスター。白いエプロン姿のウエイトレス。年季の入ったテーブルと椅子。どれもが40年以上前の世界と繋がっていた。そして酸味の効いたコーヒーを口にすると、授業を抜け出し友人等と遊びほける姿が浮かんできた。
 新たな取り組みに躊躇する気持ちもあったが、このお店と接点が持てるなら続けられそうな気がした。やり残した空白の期間を埋められそうに思えた。

●平成24年7月

 今年の春の訪れは例年と少し違っていた。桜に替わってツツジが咲いていても肌寒い日が続いた。暖かい春の日差しが注ぐ日も少なかった。不順の天候のせいか、5月中旬になっても鶯の鳴き声が聞こえなかった。何か言い知れぬ不安を感じた。
 折から「太陽活動に異変、地球寒冷期の前兆か?」といったニュースが報じられた。二酸化炭素による地球温暖化との関係はどうなのだろうと思いを巡らした。
 6月に入ると、例年通り紫陽花が咲き始めた。藍色やブルーそしてピンク色等種々の紫陽花が織りなす色彩は、鬱陶しい気分になりがちな重たい心を和らげてくれた。
 やがて、梅雨の合間に鶯の鳴き声を聞いてほっとする自分があった。自然のちょっとしたリズムの違いに不安を覚えるのは、まだ昨年の東日本大震災の恐怖が残っているからかも知れない。

●平成24年6月

 5月の初め、自宅に届いた介護保険証は招かざる客のようだった。「今日から高齢者です」との宣告を受けたに等しかった。仕事柄見慣れた保険証だが、自分の名前が記載されているとまるで違ったものに見えた。年齢を頭に浮かべ、後戻りできない過去に思いを馳せた。そして納付金額の多さに唖然とした。
 日頃高齢者福祉の現場に携わっていると、以前に比べ利用者やその家族から感謝の気持ちを頂く機会が少なくなったように思えた。それを時代のせいにすることで自らを納得させていた。しかし、今自分の保険料を目にすると「これだけ払うなら、それ相応のサービスを受けて当然だ」と利用者サイドの思考に一変した。
 さて、介護保健サービスの利用に至る経緯は様々であるが、中には持って生まれた障害や偶然の不幸等本人の責によらない場合もある。
 保険証を見直していると、たいした努力もしていないのに今ある自分の姿がありがたく思えてきた。そして健康な体を与えられたことや、今日まで関わってきた社会に感謝したい気持に包まれていった。

●平成24年5月

 小学校1,2年の頃、津久井の道志川の畔に一人で住む父の父(祖父)を訪ねたことがあった。祖父は皺くちゃな顔に精いっぱいの笑顔で迎えてくれた。
 ペリーが来航した年に生まれた祖父は、近代文明とは縁のない世界で育った。やがて、明治の文明開化を迎え電灯を初めて目にした祖父は吹いて消そうとしたとの事だった。帰りがけ父からこの話を聞いた私は祖父を時代遅れの人と心の中で嘲笑った。
 さて、最近訪れた大型家電店のパソコン売り場は私の理解の及ばない商品で溢れていた。訳も分からず歩く私には、店員の視線が鬱陶しかった。その問いかけが怖かった。まさしく心の中の祖父の姿は今の自分を映していた。
 文明の進化に遅れ始めたのはいつ頃なのだろうか。遡って考えても答えは容易に見つかりそうに無かった。
(ペリー来航 1853年7月)

●平成24年4月

 過酷な氷河期が終わりを告げた約1万年程前から私たちの祖先は農耕と牧畜を開始した。温暖な気候の到来は、人口増加をもたらした。その為安定した食料の確保が必要となった。貯蔵ができる麦やイネの栽培は集団生活を可能にし、やがて都市が形成された。鉢一杯の麦が基準となって物の交換が行なわれた。麦が貨幣の代役であった。職業の分散が始まり、農機具の改良もあって食糧生産は増大していった。
 紀元前6世紀、ギリシャのアテナイは25万人の人々で賑わっていた。その背景にはコインの登場があった。ふくろうの刻印で裏打ちされた純度の高い銀貨は人々の信頼を得て商業は盛んになった。明るい未来を約束するように思えた。しかし、銀の枯渇とともにアテナイは衰退していった。
 狩猟・採集の時代には「分かち合い」の気持ちが、そしてお互いを「信頼しあう」気持ちが集団生活を可能にし、大きな都市の形成へと繋がった。長い年月をかけて受け継がれてきたこの二つの感情を私たちが失ってしまったら、それは人類が人間で無くなる日だと言えそうである。
(参考資料 NHKスペシャル「何故人類は世界で繫栄できたか」)

●平成24年3月

 約7万年前、アフリカで暮らしていた私たちの祖先(新人)は滅亡の危機に見舞われた。氷河期の到来だった。人口はわずか数千人に減少した。しかしその1万年後彼らは南極大陸を除く世界中に広がっていった。それには理由があった。防寒具の使用や動物を捕獲する為の投擲具(やりの一種)の発明だった。更には大きな集団を形成できたことだった。互いに物を分け合ったが、集団の形成には掟(ルール)が必要だった。掟を破るものには投擲具を使用して罰を与えた。彼らは、親しい者の痛みには哀れみを感じたが、秩序を乱した者が受ける罰に不快な感情を持つことは無かった。当然と感じた。脳の働きによるものだった。
 人口の増加は、やがて部族間の殺し合いを招いた。この時も投擲具が使用された。時代と共に敵を倒すための武器は、弓矢・鉄砲・ミサイルと形を変えていったが、飛び道具であることに変わりは無い。そして現状を見れば私たちにも祖先と同じ脳の働きをする遺伝子が受け継がれていることは明らかである。

●平成24年2月

 昨年5月「何か良い育毛剤はないですか」と、馴染みの床屋さんに尋ねると「球根の無いところにチューリップは咲きませんよ。根の無いところに草は生えないでしょ。どんな育毛剤使っても毛根が無ければ無理ですよ。でもね、T社のRという商品は良いですよ。Rを使うと髪が元気になり太くなります。それで増えたように見えますよ」と言われた。
 私は早速買い求めた。説明書には効果が出るのは4ヵ月後と記載されていた。朝晩毎日2回、床屋さんには内緒で乾いた畑に水をまくように頭皮にふりかけた。2ヵ月程経つと、気のせいかほんの少し効果があったように思えた。月に1回整髪に行く度に気づいてくれるかと期待して顔色を伺ったが店主から言葉は何もなかった。
 年末に、使用していることを打ち明けると「分かってましたよ。若い人はすぐ効果出るけど歳とった人はなかなかね」と答えが返ってきた。
 老いへの抵抗は川上に向かって船を漕いでいるようにも思えるが、淡い期待を込めてもう少し使い続けることにした。

●平成24年1月

 大人になりかけた頃、今後の自分の人生を模索する時期があった。私はそのヒントを書物に求めた。著名な作家や随筆家の「人生論」を数冊買い求めて読んだ。しかし各人の説くところは様々で数式を解くような正解は得られなかった。決まった答えが無いのが正解に思えた。丁度そのころ、「狭き門」(アンドレ・ジッド)に出会った。作品には神学の真理を探究する心と恋人への想いに葛藤する主人公の苦悩が描かれていた。若い私にはとても新鮮だった。遠く及ばないながらも主人公の人間性を少しでも模範としたいと思った。
 しかしそうした想いもいつしか心の片隅に追いやられ、日々の仕事や楽しみの中に時間を費やしていった。
 そして歳を重ねた今、せめて「死に際して一人でも多くの人に『彼は良い人だったね。』と思われて人生を終われたら良いな。」と考えるようになった。そんな思いで辺りを見廻すと、黄金色に染まった銀杏の木々の葉がいつになく眩(まばゆ)かった。
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