施設長コラム「つれづれ草」(平成25年)

●平成25年12月

 毎月1回、某新聞には、戦争体験者の声が掲載されている。
 今、手にした新聞は、
 「少年飛行兵に憧れ、15歳で海軍甲種飛行予科訓練生になり、やがて人間爆弾と言われた特攻機の隊員となった話」
 「軍国教育を受けた17歳の少年が、日米開戦の臨時ニュースに全身の血が沸いた話」
 「ミッドウェイ海戦から奇跡的に生還したが、再びソロモン海戦に臨みかろうじて生還した話」
 等、悲惨な話で溢れていた。
 ここで語られている一人ひとりは、まさしく国の消耗品だった。その反省のもとに戦争放棄を明記した平和憲法が作られたはずである。しかし、戦争を知らない世代が政財界の中心となるにつれ、再び危険な道に向かい始めているように思えてしまう。
 最近国は「道徳教育の充実」を目指しているが、「戦争の悲惨さを語り継ぐ教育」こそ日本の健全な発展のために必要なことではないだろうか。
(資料 H25年11月19日付 朝日新聞「語り継ぐ戦争」より)

●平成25年11月

 某新聞の一面に「デザイナーベイビー」という聞きなれない活字が掲載されていた。保存されている精子や卵子の提供者と利用者の遺伝子情報をかけ合わせて解析する技術が米国で考案され特許が認められたという。アルツハイマー病や糖尿病など病気のリスクや目の色など多くの登録された情報に基づき、望み通りの子供が生まれる確度を知る事ができるらしい。まだ実用化には至ってないが、将来「生命の操作」が行なわれる可能性がないとは言えない。
 親なら誰しも健常な赤ちゃんを望むのは当然である。また障害児を育てるのは並たいていのことではないし、その子の行く末を案じる気持ちも理解できる。しかし、一方で次のように考える母親がいることも事実である。原因不明のまま二人の障害児を持った私は医師から「宝くじを2枚引いたと思ってください」と言われました。障害児を育てる過程で素晴らしい人々に出会い、親として、人間として成長することができました。障害児を持って「出来ることが」当たり前だった今までの人生が恥ずかしく思えました。育ててみて本当の「宝くじ」の意味が分かりました。
(下段5行は朝日新聞「声」欄1993年11月3日付けからの引用・要約です)

●平成25年10月

 毎年8月初旬に納涼祭を開催してきたが、今年は中止した。地域のボランティアによる催し物は大変好評だったが、利用者が脇役に追いやられてきたように思えた。又、重度化した利用者には例年にない暑さも心配だった。そこで今年は時期を遅らし、<自然・家族とのふれ合いin Summer>をテーマにして夕涼み会を行なった。
 家族を交えた園庭での食事の際にはあちこちから話し声が溢れた。職員の手による踊りも好評だった。利用者や家族の笑顔が夕闇に吸い込まれていった。
 何日か経ったある日、利用者Aさんの病が重くなり入院を勧めた。嘱託医も勧めた。家族に異論はなかった。しかしAさんは「私は92歳だよ。今のままで満足だよ。ここにいたらお風呂に入れるかもしれないでしょ」と入院を拒んだ。平穏な日々の暮らしを願っているAさんの心情に触れた看護師は、その人の全てを受け入れその人らしく寄り添うケアの大切さを実感した。
 9月になって開催された敬老会のテーマは<今!一日一日を大切に>だった。

●平成25年9月

 一昔前、自宅近くに気心の知れたお寿司屋さんがあった。そこで知り合った年配のAさんは、とても人柄の良い方で時折楽しいお酒をご一緒させて頂いた。あるとき酔ったAさんは、戦後生まれの私にしんみりと戦争体験を語り始めた。通信兵だったAさんのまわりには、沢山の特攻隊員がいたという。彼らは飛び立つ前日に、酒と女を与えられ幾許(いくばく)かの快楽に浸ったとのことだった。
 さて、戦後70年近くが経過したが、日本人自らの視点で戦争に至った過程・経緯を検証する動きはあったのだろうか。東京裁判は別個の問題として、責任を問う行為はなされたであろうか。私は大いに疑問に思っている。戦争への道を推し進め、意思決定に参画した指導者や機関が、そのまま戦後の政治体制を形造っていったことが原因の一つではないだろうか。
 日本人を始め東南アジアの何十万人という人々がこの戦争の犠牲になっている。反省することなく美しい日本を作ろうとしても、砂上の楼閣に過ぎないのではないだろうか。

●平成25年8月

 先日、生まれて初めて不忍の池(上野公園)の側にある「鈴本演芸場」を訪れた。落語・漫才・手品やものまね等が演じられた。
 上演時間は午後の4時間ほどだったが、開演前からかなりの賑わいをみせていた。日頃からじっとしているのが嫌いな私には、長すぎるように思えた。飽きずに最後まで観られるか不安だった。
 時間の経過とともに出演者と観客の心が一つになっていった。いつしか私もその中の一員となっていた。個々の演技は素晴らしく、プロと呼ぶに相応しかったが、持ち時間15分で行なわれる流れはスライドショウを観ているようだった。個々の演技者は全体の中の一人であった。前菜から始まって主菜、デザートとフルコースの料理を味わっているようにも思えた。劇場を後にすると仕事が頭をよぎった。
 私が関わる高齢者福祉の分野でも、介護士、看護師、栄養士等が協働してケアに当たることが求められている。その必要性・重要性を改めて考える一日となった。

●平成25年7月

 梅雨の最中、初めて屋久島を訪れた。とりわけ雨量が多い月ということで、その日程を訝る者もいたが、運を天に任せることにした。たとえ雨に降られたとしても、諦めもつくしこの時期こそ素顔の屋久島に出会えそうな気がした。
 屋久島は晴天の中にあった。前日までは大雨だったという。川の水は大地を震わしながら流れ落ちていた。轟音が岩を突き抜けていった。森のあちこちに転がる石は緑の苔で覆われていた。巨大な杉は森の番人のようにみえた。その一つひとつが長い歴史を繋ぐ一員だった。
 わずか3日間の滞在だったが、昔来たことがあるような親しみを覚えた。居心地の良さを感じた。日頃のストレスが霧に吸い込まれていった。
 出会った若者の多くは、土地の人間ではなく島の魅力に惹かれて他所からやってきた者だった。皆優しく親切で、屋久島を語る彼らの目は輝いていた。自然に溶け込んで暮らす彼らの生活ぶりがこの上なく羨ましく思えた。

●平成25年6月

 梅雨の季節を前にして、ここ2~3年気になっていることがある。緑に包まれた山々から鶯の鳴き声が溢れてくるのは例年通りだが、燕の姿を見かける機会が少なくなったように思えてならない。「田畑が少なくなったせいでは?」という人もいるが、放射能やPM2.5を始めとする大気汚染を一早く察知した結果かと不安になってしまう。
 あるときヘレン・ケラーは、来客者に道中の森の様子を尋ねたが、まともな返事は返ってこなかった。そこで彼女は「健常な人は普段何を見ているのでしょうか。目が見えず耳も聞こえないが、私なら頬を横切る風や草木の臭いから季節の変化を感じ取る事ができるのに」と話したと言う。潤いがある生活を送るためにも鋭敏な感性を身に着けたいものだが、見えてないものは自然だけだろうか。もし生活にかまけて大事なことを見過ごしているとしたら、とても勿体無い話である。そうした私たちにヘレン・ケラーの次の言葉は、生きるヒントを与えてくれそうである。
 盲目であることは悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。
<参考 ヘレン・ケラーの名言/世界の名言>(インターネットより)

●平成25年5月

 最近、株式市場は明るい兆しに包まれている。日銀により、今年1月から景気判断が上方修正されたことで、日本経済復活への期待に胸を膨らませている人も多い。
 その背景には、安倍政権が大胆な金融緩和によってデフレと円高からの脱却を強い意志で推し進めている事がある。
 「物価があがりそうだ」という思いが早めの購買意欲を促し経済は活性化していくと説くコラムニストがいるが、果たしてその通りだろうか。老後の安心感がなければ、インフレの到来に備え、返って財布の紐を固くする人もいるのではないだろうか。人口、特に労働者人口が減少する中で国の繫栄は確保されるのだろうか。エネルギー問題を含め新たな政策のビジョンは実行されるのだろうか。旧態依然のままで単に金融政策だけが先行するなら、格差社会が更に増大するのではないだろうか。
 美しい国とは何か。皆で落ち着いて考えたい。それから動いても遅くはないはずである。

●平成25年4月

 一番好きな季節というわけではないが、この3月下旬は思い出の多い季節である。
 中学を卒業し、進学先の決まった私は、ちょっぴり大人の気分に浸っていた。新芽の香りを含んだ生温かな風はことの他爽やかだった。新品のスーツの上に着たダスターコートの裾を風が吹き抜けていった。
 一人で映画館に入る衝動にもかられた。アランドロン主演の「太陽がいっぱい」は大人への手引書だった。やがて私の関心は外国女優に移っていった。ブリジッド・バルドーやカトリーヌ・スパークの容姿に心が騒いだ。スクリーンに映し出されるあらわな映像が心の奥底に刻み込まれていった。
 大人になりかけた私は、同級生を呼び出し、恥ずかしさを抑えて愛を伝えた事があった。勿論上手くいかなかったが、ずっと忘れていた50年前のほろ苦い一こまが、早咲きの桜を眺めているうちに蘇ってきた。

●平成25年3月

 カウンセリングの学校に通い始めたのは1年程前のことだった。カウンセラーを目指したわけではないが、自分を見つめ直すきっかけが欲しかった。他人を理解する手助けになるかとも思った。
 当初は月2回の授業が楽しみだった。やがて半年が過ぎ、視覚・聴覚といった五感を磨く練習に入ると上手く適応できない自分に苛立ちを覚えた。憂鬱な気持ちにも陥ってしまった。
 受験時代を通して「人間は考える葦である」や「我思う、故に我あり」と言ったように<考えること、意識すること>を訓練づけられてきた私にとってはことの他苦痛であった。まして、歳とともに物事に感動する気持ちも失われがちであった。
 しかし、私たちは日頃から、「一目会ったその日から~」といったように他人の評価をまず感覚に委ねることが多いのではないだろうか。そう考えると、感受性を磨けば苦痛の先に今までにない未来が見えてきそうにも思えた。

●平成25年2月

 一月中旬に降った大雪を見て、学生時代の一こまが蘇ってきた。当時、仲間4人と車を使ってスキー場(野沢)に遊びに行ったことがあった。10日ほど楽しんだ後帰り支度を始めると、車は雪に埋もれていた。何とか雪を掻きわけて脱出したが、国道に出るまでが大変だった。粉雪が舞い散っていた。暫く走ると前に遅い車を見つけた。一人が「抜くしかなーい」と声を発した。その声に促され、私は窮屈な道をすり抜けた。
 追い抜いた車はラッセル車だった。今まで以上に走り難くなった。アクセルを踏み込んだが、車は言うことを聞かなかった。 途方に暮れた私たちを、再びラッセル車が先導する事となった。
 過去の失敗が懐かしく思い出されるのは歳を重ねたせいかもしれない。そしてこうした失敗の数々を手土産に天国に行けたらと願うのは少々図々し過ぎるのだろうか。

●平成25年1月

 12月初め、早朝の八王子駅は混雑していた。私は駅の階段を駆け下り東京行きの先頭車両に飛び乗った。社内の中ほどまで進みカバンを網棚に上げようとすると、座席に座っている女性の仕草が親しげに見えた。「どこかで遭ったことある人かな?席を代わってくれるのかな?高齢者に見られたかな?」等と考えながら顔を近づけると「この車両は女性専用ですよ」と小声で教えてくれた。私ははっとして「次の駅で車両を移ります」と答え、そっとドアー近くに移動し、乗客の視線を背後に感じながら外を眺め続けた。不安な気持ちでいたが、暫くすると女性の社会参加の現状が気になってきた。
 女性参加の進んでいるノルウェイでは、政治活動や企業の経営に一定数の女性の参加が義務づけられている。日本でも法律により男女共同参画が促されているが、労働環境や育児環境等を比べると世界の水準からはまだまだ低いところにある。この先、こうした面の充実を図ることが経済発展の為にも必要だと考えているうちに電車はようやく立川駅に着いた。
(参考:世界経済フォーラム発表の男女平等指数(2009)において、日本は143カ国中第101位)
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