施設長コラム「つれづれ草」(平成26年)

●平成27年12月

 11月初旬、一泊二日でパンフレットに惹かれて那須を訪れた。紅葉が観たかった。自然と向き合ってみたかった。初日目指した茶臼岳の頂は雨模様で雲を引き裂くほどの強風が吹いていた。あるはずの紅葉はどこにも無かった。先月襲った台風19号のせいで葉っぱが全て落ちてしまったとのことだった。
 翌日向かった塩原は快晴だった。川を横切る吊り橋から眺める紅葉は青空に映えていた。揺れる橋の上で何回もシャッターを切った。その度に川底に吸い込まれそうで怖かった。街道沿いには野菜の直売所があった。3年半ほど前の原発事故のことが少し気になったが、私は肉厚のシイタケとヒラタケを買い求めた。驚くほど安かった。その他多くの野菜が並んでいた。その全てにこの地の自然が凝縮しているように思えた。
 旅を終えた私は、早速買い求めた品を食卓に並べ、冷たいビールの肴にした。那須の自然が口いっぱいに広がった。もっと自然を大事にしていかなければと思った。改めて自然の偉大さと強さそしてありがたさを感じた小旅行だった。

●平成26年11月

 社会福祉法人 寿幸会は今から33年前、中村幸蔵によって設立されました。幼い頃から体が弱かったが、幸にも60歳を迎えることができたことに感謝するとともに、幾ばくかの蓄財を社会のために役立てたいと考えた中村幸蔵は老人ホームの建設に取り掛かりました。現在とは違って老人福祉に理解が得られないなか、開設に当たっては種々の難題が待ち受けていましたが、多くの方々のご協力により開設する事ができました。開設に当たっては地元市町村から支援を頂きましたが、相模原市からはとりわけ多額の支援を頂きました。
 さて、私が理事長になって20年が経過しましたが「人間として人間らしく生きる気持ちを尊重する」という基本理念に込められた初代理事長の思いは今も受け継がれています。
 最近「社会福祉法人にあるべき姿」について、様々な観点から議論がなされています。寿幸会では、上に述べた基本理念を職員全員で共有し、今後も高齢者福祉に携わって行きたいと考えています。

●平成26年10月

 片道20キロ以上かけて学校に通うアフリカの子供達の姿が放映されていた。4時間近くかかるその道中には猛獣が寝そべっていたり険しい山道もあった。兄弟や仲間同士、幼い者をかばいながら歩く姿があった。「大きくなったらお医者さんになって病気の人を救ってあげたい」「学校に行けない友達に習ったことを教えてあげたい」そんなことを語る子供達の目は輝いていた。彼らの言葉や姿に人間の原点を見る思いがした。
 約20万年前に出現した私達の祖先(ホモ・サピエンス)は一時期1万人以下に減少してしまった。氷河期が原因だったが、祖先はその逆境を乗り越えた。彼等は自分の体を変化させる適応力があった。相手の感情を読み取る能力を備えていた。食料を皆で分かち合うことができた。そこには弱い者を皆で守る共同体があった。
 現在貧富の差は年々拡大しているし、一日4万人が飢餓で亡くなっている。私達は誰もが祖先のDNAを受け継いだはずである。その働きを阻害する要因はどこにあるのだろうか。

●平成26年9月

 8月のある暑い日、記念艦「三笠」を訪れた。
 「三笠」は今から110年前の日露戦争において連合艦隊の旗艦を務めた戦艦である。日露海戦においてバルチック艦隊を撃破し日本を勝利に導く原動力となった。この勝利により日本は国際的地位を高めたし、抑圧・蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え独立の気運を促進させた。インドの独立運動に貢献したネールや中国建国の父と仰がれている孫文もこの快挙に対し限りない賛辞を述べている。
 現在の三笠の砲塔、煙突、マストなどはもちろんレプリカであるが、艦内には戦いを語り継ぐ展示物が多数あった。もし負けていたら、日本の運命は全く異なっていたに違いない。国が自衛のための戦争だったと位置づけるのも頷けないではない。
 古来より戦いにおいては、勝者の理論が全てで「まさしく力は正義なり」であった。その積み重ねによって今日の国際社会は形成されている。太平洋戦争で日本は敗者となった。日露戦争の勝利が身の丈を忘れさせたのかもしれない。この先人類に「条理にかなった正義」が訪れる日はあるだろうか。平和憲法を持った日本がその任に当たれたら素晴らしい事なのだが。

●平成26年8月

 ここ2ヶ月程、夏目漱石の世界にどっぷりと浸かっていた。某新聞が100年ぶりに「こころ」を連載したのがきっかけだった。私は家の書棚から漱石の本を数冊拾い出した。旧仮名づかいや旧字体の活字は明治末期から大正初期にかけての世情を思い浮かべるのに充分だった。ページを捲(めく)る毎に当時の香りが漂ってきた。文面の背後に漱石の姿が見えた。読み尽くした私は、未完に終わった「明暗」を本屋に求めた。新仮名づかいの作品に違和感を覚えたが、読み進めるうちに心理描写の妙に引き込まれていった。登場人物の一人ひとりの中に自己愛と人間のずるさ、弱さが込められていた。
 「死の科学」を提唱したデーケン博士によれば、人間は他の動物と違って、死を意識することによって成長することが出来るそうだ。胃潰瘍を患い長年大病を繰り返してきた漱石もまた死と直面する度に成長を遂げ、その集大成がこの作品を生んだと言えるのではないだろうか。勿論漱石が類(たぐい)稀なる才能の持ち主であるのは言うまでもないが。
 その後私は筋書きの続きが気になりあれこれ探索してみたが、漱石以外にその解を求めることの無意味さを程なくして悟った。
※備考 アルフォンス・デーケン ドイツ生まれの哲学者 専門は「死生学」

●平成26年7月

 6月の始め、ホームの外出活動に参加したTさんは次のように語っていた。「看護師長さんが『外出活動に参加しませんか?』と声をかけてくれました。向かった先は生まれ故郷の鳥居原で、車に乗るとすぐに啄木の<ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな>という詩を思い出し涙があふれました。車中から見る関・太郎峠・道祖神は懐かしかったし、鳥屋まで来ると、この地で郵便局長をしていた祖父が突然瞼に浮かんできました。祖父は懐から小銭を取り出し私にくれようとしていました。祖父に甘える私がいました。その光景が目に焼きついて離れませんでした。
 そして<ふれあい館>に到着し、辺りを見回すと昔あった雑木林や畑はすっかり変わり果てていました。ゆっくり、ゆっくり子供の頃の情景を思い浮かべているうちに目頭が熱くなってきました。
 3ヶ月程前足を折ってしまい2度と外出は出来ないと思っていた私にはかけがえのないひと時となりました。こうした機会を作ってくれた旭ヶ丘や看護師長さんに感謝の気持ちでいっぱいになりました」
※備考 外出活動:月に1~2回 希望者を募ってドライブや買物をしています

●平成26年6月

 殺人事件など重大な刑事裁判の審理に市民が参加する裁判員制度の施行からこの5月で5年が経過した。その間5万人近い市民が参加し、21人に死刑判決が言い渡されたが、このうちの3件の判決は高裁等において破棄された。殺害された被害者が1人の場合は死刑が避けられる過去の傾向が重視された結果だった。制度導入の目的は、市民感覚を裁判に取り入れることにあったはずである。もし『先例』で決めるなら裁判員制度の意味は薄らいでしまうのではないだろうか。
 又導入理由の一つとして、多くの国でこうした制度が採用されている事があげられているが、そのほとんどの国では「死刑制度」が廃止されているし、死刑制度の廃止は世界的傾向でもある。
 裁判員が死刑を選択する際の精神的苦痛や悩みは並大抵のことではないだろう。その裁判員達が熟考して出した決断は尊重されるべきだが、その前に「死刑制度」と犯罪者も含めた「個々の人権」について議論を進めるべきではないだろうか。

●平成26年5月

 東日本大震災から3年、メルトダウンを起こした福島1号機の処理はいつ始まるのだろうか。高濃度の放射線物質を含んだ汚染水は本当にコントロール出来ているのだろうか。「原発ゼロ」を目指した事故の教訓は明日に繋がっていくのだろうか。
 そんな心配をよそに、国のエネルギー政策は安倍政権によって大きく転換し、再び原発依存に回帰することとなった。
 想定外はともかくとして、不幸にして起きてしまった災いを福に転じる絶好の機会とすべきではないだろうか。風力発電や太陽光発電またメタンハイグレードの発掘等代替エネルギーの開発が進められているが、新たな視点にたった取り組みも欲しいものである。
 最近、米海軍は海水を燃料にする技術を開発したとのことだ。日本でも藻類オイルの研究が進められているという。もし実現すれば、エネルギー自給率わずか4%の日本が海洋国の特性を生かして産油国になることも夢ではない。この開発を経済成長戦略の一つとしてはどうだろうか。
 クリーンなエネルギーに明るい未来を描くのも悪い話ではないと思うのだが。

●平成26年4月

 地球は寒冷期に入ったのだろうか。二酸化炭素による温暖化が問題視されているのに、日本では今年例年にない厳しい寒さに見舞われた。また、3月下旬になっても寒暖の差が激しく、今年は桜の開花が遅れるのではと自然の営みが心配になってしまう。
 地球の気候には温暖化と寒冷化のサイクルがある。人為的な温暖化という流れとは別に、地球は寒冷期が訪れるサイクルに入りつつあるのかもしれない。
 少し前「温暖化により北海の氷が2013年には溶けてなくなるだろう」と言われていたのに、北海の氷はなくなるどころか増加の一途をたどっているらしい。
 地球上では、過去大きな氷河期が4回あった。私達の先祖はその過酷な環境を知恵と助け合いによって乗り越えてきた。現在は「間氷期」と呼ばれる中休の暖かい時期で、私達は今非常に恵まれた状況の中にいる。それでも世界各地で争いごとは止むことなく起きている。恵まれた環境が、いがみ合う気持ちを生み出すのだろうか。もしそれが人類の本質だとしたら少し寂しい気持ちになってしまう。

●平成26年3月

 この冬の二度に渡る大雪は、過ぎ去った月日との再会でもあった。
 辺り一面の雪野原は、はるか昔訪れたスキー場での思い出に繋がっていった。滑り始めた途端に骨折してしまった友人の姿、コブだらけの急斜面を目にした時の恐怖心、その他楽しい思い出や苦い思い出が次から次と浮かんできた。まるで昨日のように思えた。書棚の下につまれた埃だらけの日記帳を読み返すように日頃忘れていた事柄が蘇ってきた。私の自我もこうした無意識の世界と関わりを持っているのだと考えると、思い出の一つ一つが妙に愛おしく思えた。
 そして今回、仕事を終えバス停目指して雪道を下っていると、一人の青年の好意により最寄の駅まで同乗させてもらうことになった。車中で挨拶がわりの会話を交わすうちに彼の人柄の良さが伝わってきた。降り際わずかばかりの謝礼を申し出たが彼は決して受け取ろうとしなかった。私は彼の横顔にかつての自分を重ね合わせようとした。今は無くしてしまった彼の純粋さが雪に映えて眩しかった。

●平成26年2月

 昨年12月、80歳の誕生日に行われた天皇陛下のご会見は心に響く内容だった。陛下の学齢期に始まった戦争への道は小学校の最後の年に終戦を迎えたという。お言葉の中で、『この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を守るべきものとして日本国憲法を作り、様々な改革を行なって、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています』と述べられている。
 大日本帝国憲法の下、昭和天皇は臣下の具申により戦争を選択した。そして原爆投下により終了することとなった。陛下のお言葉は、その間の父である昭和天皇の苦悩を代弁しているように思える。
 その陛下はもとより昭和天皇もA級戦犯が合祀された靖国神社を一度も訪れようとはしなかった。
(H25.12.23 天皇陛下ご会見の一部を掲載)

●平成26年1月

 行き先はフランクフルト。飛行機は時間に逆らって飛んでいた。
 10数年以上前からドイツで暮らす娘夫婦と孫を尋ねる初めての旅行だった。本来なら真夜中のはずが、着陸した時はまだ夕方の4時だった。
 私は今過ぎ去ったばかりの8時間をもう一度やり直すこととなった。得しているようにも思えた。
 居間では4歳になる双子と1歳間近の子供達がくつろいでいた。二重ガラスの大きな窓からは柔らかな日差しが差し込んでいた。
 時折、娘と子供らの話し声が聞こえた。その話しぶりや仕草・振る舞いの中に遠い昔を彷彿させるところがいくつかあった。
 そんな親子を眺めているうちに、私は次第に後悔に似た気持ちに包まれていった。当時、若い私は子供の気持ちを理解してあげることも受け止めることも出来なかった。経験を重ねた今なら、もう少し上手に育てられるような気がした。
 しかし、時差の8時間とは違って、過去は変えられないしやり直すことも出来ない。ならば残された時間を有意義に使わなければとの想いに駆られた一週間の旅だった。
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