施設長コラム「つれづれ草」(平成27年)

●平成27年12月

 ガラパゴス諸島(南米エクアドル領)に生息するイグアナ(リクイグアナ)は、サボテンを主食にしていた。そこでサボテンの一種は背丈を伸ばしイグアナに食べられないように進化していった。困ったイグアナの一種は海岸の岩場に住みついた。そのウミイグアナも進化により岩にしがみつく鋭い爪と水掻きを発達させ、海草を食べる能力を身に付けた。しかし近年地球温暖化により海水温度が上昇し海草が減少してくると、再び陸に活路を求めた。ハイブリッドイグアナの誕生である。このイグアナは雄のウミイグアナと雌のリクイグアナの交雑によって生まれた雑種で、鋭い爪でサボテンに昇ることが出来るし海に潜り海草を食べることもできる。「時代の申し子」ともいえるが、繁殖能力は無いため、ウミイグアナとリクイグアナ両種が存在しないと生まれることは出来ない。
 「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは変化に最もよく適応したものである」とはダーウィンの残した言葉だが、私たちは今後環境の変化にどう適応していくのだろうか。進化はともかくとして生き延びる柔軟性は身につけておきたいものである。

●平成27年11月

 紅葉に触れたくなった私は、上越新幹線上毛高原駅で下車した。一泊二日の旅だった。乗降客は少なく、構内は静けさに包まれていた。駅前には町営と思しき土産物店が一軒あるだけだった。レンタカーを借りた私は、東洋のナイアガラとも呼ばれている「吹割りの滝」を目指した。街道沿いの果樹園には真っ赤な林檎がたわわに実っていた。「吹割りの滝」は雄大な自然美を醸し出していた。激しい流れは私を水底に招いているようだった。色づき始めた紅葉は岸壁の岩肌を覆っていた。
 翌日は快晴だった。向かった谷川岳も真っ青な空の下にあった。山腹の天神平は、学生の頃スキーをしに何回か来た地だった。その地形に当時の面影を求めたが記憶は消えていた。全てが目新しい光景だった。足元のナナカマドの赤い実が妙に愛らしかった。
 谷川岳の裾は見事な紅葉に染まっていた。空気は透明だった。私はその空気を胸いっぱい吸い込んだ。木々の間から見える谷川岳はどこまでも穏やかだった。一方で谷川岳は世界に類をみないほど遭難者が多い山だという。そんな恐ろしさをおくびに出さない山を眺めていると、魔性の女を兼ね備えているようにも思えた。

●平成27年10月

 何年か前のある秋、ピオーネを食べたくなった私たちは電車を乗り継ぎ勝沼ぶどう郷に向かった。たまたま目に入ったぶどう園の経営者はことの他親切だった。季節が多少ずれていたにも関わらず、目的の美味しいピオーネを選んでくれた。それが縁で私たちは毎年そのぶどう園を訪れることとなった。今年はシャインマスカットや瀬戸ジャイアンツを薦められたが、個性豊かなぶどうの感触に舌鼓した。甘い香は心に溶け込んでいった。その他園内には多種多様なぶどうが植えられていた。その多さに只々驚くばかりであった。
 毎年新種を開発する技術の進歩には感心するばかりである。しかし本当に素晴らしいのは人間の要求に応えて進化するぶどうの方ではないかと、頭上に垂れ下がるぶどうの房を眺めているうちに考えた。
 10数億年前、単細胞からスタートした生物は、進化の過程で環境の変化への適応が求められた。私達人類も同様であった。自らを変えて環境に適応する大事さ、このことは私たちの日ごろの人間関係にも言えるのではないだろうか。しかし私にとって自分を変えるのは、少々至難の業のようである。

●平成27年9月

 日本はなぜ戦争へと向かったのだろうか。1941年12月8日、戦争回避に向けたアメリカとの瀬戸際の交渉にも失敗した日本は、ついに対米戦争という悲劇的な課程に足を踏み入れた。緒戦の奇襲作戦に成功した日本軍は、東南アジア各地へと急速に進出していった。しかしミッドウェー海戦を境に形勢は逆転し、やがて2か所の原爆投下を受けて敗戦を迎えることとなった。
 さて、この戦争の目的は何だったのだろうか。阿部首相が談話で述べたように「新たな国際秩序」への挑戦だったのだろうか。大東亜共栄圏の建設はアジアの開放が主眼だったのだろうか。あるいは自衛のための戦いだったのだろうか。石油を始めとする天然資源の獲得を目指した侵略だったのだろうか。
 こうした様々な見方が存在するのは、この悲惨な結果を招いた戦争を国民全体で総括してこなかったからではないだろうか。過去の歴史に真正面から向き合い謙虚な気持ちで過去を受け継ぐ為には総括が大事だし、さらに何故総括しなかったのかあるいは何故できなかったのかその原因を究明するすることがより重要だと私は考えている。

●平成27年8月

 九十九里浜に行くと美味しい蛤が食べられると聞いた私は、7月初旬さっそくその地を訪れた。閑散とした風景にもかかわらず、店内は殊の外にぎわっていた。電車とバスを乗り継いで約3時間かかったが、やっと口にした蛤や帆立貝、サザエ等は新鮮で、評判どおりの美味しさだった。今までに味わった事のない海の幸が次からつぎと胃袋に吸い込まれていった。
 やがて満腹になった私は、店の裏に面した浜辺に立った。広大な海があった。海辺近くで育った私が少年の頃目にした光景に似ていた。青空の下しぶきをあげて押し寄せる波に終りはなかった。私は時間を忘れてその繰り返しを眺めていた。過去から今そして未来へと無限の時が流れているように思えた。
 打ち寄せる波の一つひとつが思い出の一つひとつを運んできた。楽しい思い出があった。ほろ苦い出来事も浮かんできた。飛び散る波しぶきがその全てを拭い去っていくように見えた。もの心ついてから60年あまり、私が築いてきたものはあるのだろうか。そんな思いでいる私の頬を磯の香を含んだ風が吹き抜けていった。

●平成27年7月

 昨年4月から朝日新聞では夏目漱石の小説を106年ぶりに連載している。学生時代に読んだ作品だが、約40年ぶりに接する漱石は、大きな岩のように私の前に立ちはだかった。奥が深く難解な内容は、私の知力を試しているようだった。
 あるとき、その紙面の下段に、もう一つの小説を見つけた。作者は沢木耕太郎で、初めて目にする名前だった。何日か読んでいると、話の展開が面白く活字が心に溶け込んでいった。作品に言い知れぬ郷愁を感じた私はインターネットで彼の履歴を検索した。
 予感は当たっていた。彼は私と同じ昭和22年生まれだった。私は数多い作品の中からとある一冊を購入した。漱石とは違った世界があった。同じ世代を生きてきた人間の香りがあった。自分の青春時代に結び付けて読み進んだ。ふとしたきっかけで、素晴らしい作家を知ることとなった。
 雲水が旅に出るのは新たな出会いを求めるためだと聞いたことがある。私も何かを求める鋭敏な心を持ち続けたいと思った。そしてまた誰からとは問わず求めに応えられる人でありたいとも思った。

●平成27年6月

 日本が世界に類を見ないスピードで「少子高齢化社会」を迎えている原因は何か。そんな疑問を抱く私に一冊の本が答えを与えてくれた。
 戦前、戦後を通して政府は強権的に人口政策を行なった。政府は大正から昭和にかけて兵力増強のため「産めよ増やせよ」と出産奨励策を展開した。幸いこの政策で生まれた子供の大部分は戦争中には成人に達しなかった。そして彼らは高度成長経済の立役者となったが、2020年頃から随時平均余命を迎え、出生数の低下もあって人口減少社会が加速することになる。
 戦後、政府は人口政策を180度変え、優性保護法を改正して大規模な産児制度を試みた。ベビーブームが続くと、日本は飢餓状態になってしまうと判断したからだった。政策手段は人工中絶だった。年間出生者数40%減少した。この政策は20年間に渡って行なわれ、出生率の低下を螺旋(らせん)的に招く結果となった。
 急激な人口減少と高齢化は、日本特有の政策のツケであった。正常な人口構造に戻すには60~70年かかるという。小手先の少子化対策は無意味だという。戦後の後遺症は、この先まだ60年は続くことになる。その責任を取るのは、やはり国民なのだろうか。
(一冊の本 「東京劣化」松谷明彦著 PHP研究所発行)

●平成27年5月

 4月の中旬、甲府の少し先にある神大桜を観に行ってきた。樹齢2000年とも言われる神大桜は日本三大桜の一つであり、遠くには南アルプスの山々が聳(そび)えていた。満開の時期は少し過ぎていたが、幸い天気に恵まれ絶好のお花見日和だった。風に舞うピンクの花びらが頬を通り過ぎていった。長い歴史を刻んできた巨木は背丈10メートル程で四方に伸びた枝には何本もの添え木が充てられていた。幹は瘤だらけでごつごつした表皮は大きな溶岩を彷彿させた。
 神大桜の極盛期は幕末から明治であったらしいが、戦後まもなく「3年以内に枯れ死する」という宣告を受けた。根圏の環境の変化や悪化が原因の一つと考えられた。その後詳細な調査により、平成14年度から4年の歳月をかけて大規模な土壌改良工事が行なわれた。関係者の情熱と努力により戦後70年経った現在、少しずつではあるが、勢いを取り戻しているという。
 日本では昔から桜は平和の象徴とされてきたが、この桜の花びら一片(ひとひら)ひとひらに永遠のテーマともいうべき平和を願う多くの人々の思いが込められているようだった。そして平和のために力を合わせて守っていく事は他にもあることを教えられた気がした。

●平成27年4月

 以下はタイタニック号にまつわる小話である。もちろん実話ではない。
 氷山に衝突したタイタニック号の沈没は差し迫っていた。全員の救出は不可能だった。救命具の使用は子供と女性に限られた。そこで船長は男性の了解を得ることにした。  船長の命令を受けた乗組員はイギリス人に「もし、子供と女性を優先して救助する事に同意してくれれば、あなたはジェントルマンと称えられるでしょう」と伝えた。男は「OK」と答えた。次にドイツ人に「子供と女性の優先がこの船のルールです」と伝えると納得してくれた。またスペイン人には「そうすれば、あなたは英雄になれるでしょう」と話すと彼も右手を高々と上げて了解した。最後に日本人に「○○○」と話しかけると、彼も「わかりました」と素直に従った。はたして日本人にはどのように伝えたのだろうか?
 正解があるわけではないが、暫くしてから私の考えた「○○○」を話すと、そこから延々と<日本人論>が始まることも多々あった。
 ところで私が用意した「○○○」は「みんなそうしてます」である。

●平成27年3月

 最近、ギリシャの財政事情が深刻な事態を迎えているという。
 さて、世界で最初に国際通貨となったのはフクロウが刻印されたギリシャ(アテナイ)のドラクマコインだった。純銀との交換が保障されたこのコインの登場によって、アテナイの人々の暮らし向きが豊かになるとともに社会の仕組みも変化していった。政字、学問、芸術が発展し古代ギリシャ文明が黄金時代を迎えた。鉱山から産出される銀は無尽蔵に思えた。人々はアテナイの永遠の繫栄を信じて疑わなかった。
 一方、銀山では約2万の奴隷が足輪を付けられ、酸欠と戦いながら鉱石を掘ったという。また化石燃料のない当時、製錬には大量の木材を必要とした。その結果アテナイの領土を超えて支配地域の森林が破壊されていった。森林の破壊は土壌浸食を引き起こし、治水の不備からマラリアが蔓延し人口が激減したという。人口の減少は国力の低下を招いた。
 はるか昔、紀元前4、5世紀の話だが、最近の話としても通用しそうである。私たちは歴史から何を学んできたのだろうか。それともやはり「歴史は繰り返す」のだろうか。

●平成27年2月

 夏目漱石の「行人」の中にモハメッドをモチーフにした箇所がある。以下はその抜書きである。
 「向こうに見える大きな山を、自分の足元に呼び寄せて見せる。それを見たいものは何月何日を期してここに集まれ」というモハメッドの言葉を聞いた群集は、期日になって彼の周囲を取り巻いた。モハメッドは約束通り大きな声で山に向かって此処へくるよう命じた。ところが山は動かなかった。モハメッドは澄ましたもので、又同じ号令をかけたがそれでも山は依然として動かなかった。三度同じ号令を繰り返しても全く動く気色の見えない山を眺めた彼は「約束通り自分は山を呼び寄せた。然し山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くより仕方があるまい」と云ってすたすた山の方へ歩いて行った。
 夏目漱石はそれに続く文章で「結構な話だ。宗教の本義は其処にある」と作品中の人物に語らせている。私自身、この話を自分の行動に照らし合わせてみることが多々ある。
 各々の宗教を信じるか信じないかは別として、平和な社会は多種多様な価値観に寛容な社会であるように思っている。
引用 夏目漱石「行人」<角川文庫>

●平成27年1月

 年末に行なわれた国政選挙の投票率は53%を割り込み戦後最低となった。大変残念なことだが、ただ単に数値だけに目を留めることには少しばかり違和感を覚える。この国では少子高齢化が駆け足で進む中、外出が困難な高齢者も増加している。また85歳以上の4人に1人は認知症だと言われている。そうした人口構成の推移や社会背景を考慮しないでただ単に投票率だけで比較して良いのだろうか。確かに20代の若者の投票率は30%台とかなり低いが、大学に投票所を設けたらどうなるだろうか。ある市では期日前投票が出来る場所を大手スーパーの近くに設けたら好評だったと聞く。経費との兼ね合いもあるが、投票しやすい環境づくりの整備も大事ではないだろうか。
 もうひとつ気になるのは、諸外国の投票率である。スウェーデン、アイルランド、デンマークといった社会福祉の充実した北欧では投票率が80%を超えている。投票率の高さと社会福祉の充実に相関関係はあるだろうか。一方アメリカの投票率が42%というのも気になるところである。
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