施設長コラム「つれづれ草」(平成28年)

●平成28年12月

 今年3月初旬、60歳を少し過ぎたスタッフの1人が故郷の訛を含んだ口調で体の不調を訴えてきた。私は彼の顔色を見て嫌な予感がした。
 3月といえば、予算書の作成時期で経理担当の彼の仕事は忙しかった。その忙しさの合間をぬって病院を受診した。不幸にも予感は当たっていた。末期の膵臓がんだった。彼は選択肢の少ない中、抗がん剤治療の道を選んだ。残された時間は1年余りに思えた。その後病状は一進一退を繰り返した。不安の中にも明るい兆しの見える時もあった。彼との出会いは約10年前、夏の暑い日だった。面接に訪れた彼をみて、能力の高さと真面目な性格そして人柄の良さを感じた。私の直感は間違っていなかった。彼の仕事ぶりは誠実そのものだった。嫌な顔をひとつせず、雑用も進んで引き受けてくれた。人手の少ないホームにとっては、大変貴重な存在だった。
 8月23日、私は体調を崩し入院中の彼を見舞った。比較的元気な姿を見て私はその翌日ドイツに旅立った。その3日後、悲報を伝えるメールが旅先に届いた。運命なのか宿命なのかわからないが、日頃不摂生な生活を繰り返してる私にとって、他人事ではなかった。一日いちにち生きる有りがたさを彼の死が改めて教えてくれた。

●平成28年11月

 小学校4年生の時だったろうか。授業を終えた私は友達とAさんの家に遊びにいった。Aさんの家は一駅離れた所にあり、私たちは電車を使っていった。やがて遊び疲れた二人は<電車に乗って帰るか。それともコロッケを買って食べながら帰るか>迷った。その日ポケットの入っていたのは10円玉一つ。当時コロッケの値段は5円、そして子供の電車賃も5円だった。子供の足で40分程度の距離だったと思うが、お腹の空いた二人は歩きながら帰った。
 バナナにも思い出がある。バナナの輸入が正式に再開されたのが昭和24年とのことだが、当時は1本40円位して容易に買うことは出来なかったし、病気でもしないと食べられなかった。バナナといえば、私は太った南国の王様がヤシの下で撓(たわわ)に実った房を両手に抱える姿を思い描いていた。
 当時と現在ではお金の価値も隔たりがあり、単純に比較できるものではない。それでも少しばかりのお金の使い方に、あれこれ迷い自問した自分が愛おしく思えてくる。その心を持ち続けていれば、もう少し違った人生を送ることが出来たかもしれない。勿論私が歩んできた道も私の人生であることに間違いはないが。

●平成28年10月

 ホームでは今年も敬老の日の催しが行われた。今年のテーマは「今いる場所で咲きましょう」だった。ベストセラーとなった本の題名をもじった何気ない言葉だが、介護に関わる職員全員の気持ちが込められていた。看護課、介護課、栄養課そして総務課との間で真剣な打ち合わせが行われた。利用者やご家族に喜んでもらいたいとの気持ちが職員の心を一つにした。
 最高齢107歳のAさんへの花束贈呈ほか10名への花束贈呈やその他の式が終わると、家族は利用者と食事を摂るまでの間、語らいのひと時を楽しんだ。両親を囲む娘や息子の姿があった。孫の姿もあった。ひ孫の写真に涙する姿があった。笑い声が部屋や廊下に溢れた。利用者の顔にも普段では見られない笑顔があった。普段では考えられない程食の進む者もいた。
 入所者50人が、ここで暮らすことになったのにはそれぞれ理由があることだろう。そして彼らは一緒に過ごす人を選んだわけではない。そうした中でも、一人ひとり毎日せいいっぱい咲いて欲しい。そして私たちはその花が咲き続ける手助けができたらいいなと思っている。

●平成28年9月

 先日参加したセミナーのテーマは「依存と自立」だった。最近福祉の世界では「自立」が制度や政策の目的・目標となっている。そして支援にあたっては「依存からの脱却」といったように「依存」が「自立」の対義語として使われることが多い。しかし講師の話は違っていた。
 脳性まひの障害を持って生まれた講師は、子供の頃から壮絶なリハビリを受けてきた。天井なしに設定されたその目標には“健常者に近づいてほしい”との親の願いが込められていた。
 その後大学に合格し一人暮らしを始めた彼は、「私も物に合わせて動きを変えるし、物も私に合わせて形を変える。物と私が互いに歩み寄る」大切さを学んだ。そして健常者が様々な物に依存して生きているのに対し、障害者は限られた物にしか依存できない。世の中のほとんどの物は健常者向けにデザインされているのに、彼らはその便利さに依存していないかのように錯覚している。この錯覚した状態が「自立」といわれる状態ではないだろうか。だから障害者の自立生活運動は「まだまだ少ない限られた依存先を広げる運動」に他ならないと述べた。
*講師 熊谷晋一郎氏 小児科医/東京大学先端科学技術センター・特任講師

●平成28年8月

 「おおらかな生き方」をテーマにした早朝のラジオ番組は、良寛和尚の逸話を伝えていた。興味を持った私は早速パソコンで調べた。以下はラジオとネットから得た情報である。
 朝早くから托鉢に出たものの、お布施をもらえず疲れて帰ってきた良寛さんは質素な夕食を済ませると、すぐ床を敷いてぐっすり寝込んでしまった。ところが部屋の片隅から聞こえる変な物音に目をさました良寛さんは泥棒を見つけた。雨戸の隙間から差し込んでくる明るい月の光のお陰で泥棒の仕業が手に取るようにわかった。
 泥棒は室内を探しまわったが、目ぼしいものは何もなかった。そこで良寛さんは、両足で掛け布団を蹴り下げながらわざと寝返りをうち、布団を体の外に移した。泥棒はしめたと布団を引き寄せ小脇に抱え抜き足差し足で逃げていった。
 みすぼらしい庵に入った泥棒を不憫に思った良寛さんは最初から涙を滲ませたが、やがて敷布団の上に起き直り寝着の袖で目をぬぐった。そして合掌しながら差し込んでくる光に向かって<盗人にとり残されし窓の月>と口ずさんだという。
引用文献 インターネット「素人学者のうわごと」

●平成28年7月

 ある報告書によると、世界人口の1%ほどの富裕層が全世界の富の半分を独占しているという。上位1%の富裕層の資産は一人当たり3億円以上であるが、下位の80%を占める層のそれは45万円にしかならないという。そして約60億円以上の資産を持つ人は全世界で13万近く人いるが、その半分は米国人だという。
 その一方で世界には貧困と飢えから抜け出せない人も数多く存在する。1日150円以下で暮らす「極度の貧困」者は12億人(2013年現在)存在するし、1日に25,000人近くの人が飢餓で亡くなっているという。
 貧困は様々な問題を引き起こす。十分な栄養摂取が難しかったり、病気になっても治療が受けられなかったり、十分な教育を受けられなかったり、日々を生き延びることに精いっぱいだったりといつまでも貧困状態から抜け出せない人が数多く存在する。
 私はテロを始とする世界の政情不安の根源は、この貧富の差の増大にあると考えている。戦後70年経った今、この状況を打破するためには、新たな秩序の形成が求められているところだが、その行く手を拒むのは人間のエゴといったところだろうか。
備考 ある報告書=国際NGO「オックスファム」

●平成28年6月

 4月中旬に熊本などで起きた一連の大地震は、ひと月たった今も震度3クラスの余震が続いている。熊本地方から阿蘇地方へと僅かな間に震源地が移動した今回のケースは観測史上過去に例がないと言われているが、歴史に手がかりを見つけることはできないだろうか。
 実は被害の大きかった熊本県西原村の400年前の郷土誌には「熊本県八代地方で発生した地震に続いて現在の大分県に当たる豊後地方も大きく揺れた。その後たび重なる地震によって熊本城の天守閣の石垣がバラバラと落ちた」と記述されているという。類似点はそればかりではない熊本地震の8年前、東北地方で大きな地震が起き、津波に襲われ多くの死者が出たと歴史は伝えている。そして熊本地震の14年後には現在の神奈川県、小田原地方で大きな地震が起きている。
 そもそも日本列島は4つのプレートが衝突する場所に位置し活断層が数多くある。その中央部には活火山が点々と分布するとともに中軸部の地下10kmに広がる変成岩地帯は雲母質や粘土質の岩石が多く、地滑りを起こしやすいという。昔読んだ「日本沈没」が小説だけの話であればいいのだが。
「日本沈没」小松左京著(1973)

●平成28年5月

 4月1日所属している10人程のグループで桜の植樹を行うことになり、初めて「峰の薬師」を訪れた。早朝の集合時間に間に合わなかった私は自分の車で向かった。地図を頼りに進んだが道は次第に細くなり不安な気持ちは増していった。一瞬本気で「遺書」を書いてきた方が良かったかとも思った。ようやく着いた私の脇をハイカーの一団がのんびりとした足取りで通り過ぎていった。そしてそこにはスコップを持った10人ばかりの仲間の笑顔があった。彼らは場所を選んで、背丈ほどの染井吉野の苗木を植えていた。苗木には添え木があてられた。彼らの手さばきに見とれていた私も促されてスコップを握った。
 辺りを見回すと雑木を押しのけるようにして満開の桜が目に飛び込んできた。湖を見下ろす太い幹には津久井の歴史が刻まれているように思えた。樹齢50年は超えているこの桜を植えたのはどんな人なのだろうか、どんな思いで植えたのだろうかと心は遠い昔を訪ねていた。そして50年後この地を訪れる人は今私の植えた桜をどんな思いで観るのだろうかと世の移り変わりに思いを巡らせた。そしてその中に孫たちの姿を描く自分がいた。

●平成28年4月

 2,3日前の寒さはなんだったのだろうか。4月を間近にした今日は殊の外暖かかった。ラジオでは一部地域の桜の開花を伝えていた。庭先の家庭菜園に暖かな日差しが注いだ。四季折々それぞれの良さがあるが、私は桜の開花を前にしたこの時期が一番好きだ。「岩走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(注1)」と詠われるような生命の息吹を感じるわけでもないが、中学を卒業した頃の春の感覚が今でも心に残っている。
 学生服を窮屈に感じた私はブレザーとスプリングコートを身につけて街中にでかけた。大人びた世界を求める私の頬を春風がすり抜けていった。向かった先は映画館。内容はまだ文明の発達していない時代に生きる若い男女の愛の物語だった。手を携えて新天地に向かって歩む二人の姿でドラマは終わった。
 翌日私は自宅前に一人の女の子を呼び寄せた。ずっとあこがれていた同級生だった。私は勇気を出して「付き合って欲しい」と告白した。残念ながら思いは伝わらなかったが、大人に向かう入口だったのかもしれない。どうやら春風が50年前の思い出を運んできてくれたらしい。
注1 万葉集 志貴皇子 作

●平成28年3月

 現実から逃避したい気持ちが過去を引き寄せるのだろうか。あるいは単に老年期を迎えたせいだろうか。歳を重ねる毎に遠ざかっていくはずの過去の出来事が、逆に昨日のように思い出されることがある。
 前回に続き学生時代の思い出話だが、私たち5人は車で野沢温泉スキー場に向かった。スキー場は雪が降りしきっていた。4日間の滞在を終え、駐車場に行くと車は雪の中に埋もれていた。必死の思いで雪をかき分け何とか出発にこぎつけた。国道に出るまでの道が心配だったが、それ程苦労せずに走ることができた。暫くすると前方にのろのろ走る車があった。「抜くしかなーい」と仲間の一人が叫んだ。その言葉に呼応してあっという間に前方の車を抜き去った。抜いた車はラッセル車だった。怒られると思った私たちは必死に逃げようとしたが、ラッセルされてない道は走りようがなく再びラッセル車のお世話になってしまった。
 無鉄砲な行為で、若者だからといって許されるわけではないが、私たちは迷惑や過ちを繰り返して成長するのではないだろうか。勿論犯罪は論外だが、こうした行為に寛容な社会の愛情が人を育ててくれるのかもしれない。

●平成28年2月

 スキー場に向かっていたバスが横転し15人の命が奪われた。その多くはツアーに参加した大学生だという。私も学生の頃よくスキー場を訪れた。当時は鉄道を利用することが多く、重いザックを背負い夜行列車でスキー場に向かったものだった。
 ある時、野沢スキー場に向かった私は朝早く長野駅に着いた。駅前は吹雪が舞っていた。乗り継ぎの電車を待つ私は赤々と燃えるドラム缶に近寄り、冷たくなった手足を炎に近づけた。するとドラム缶の持ち主と思しき男に「買物しない者はどきなさい」と追い払われてしまった。途方にくれる私に中年の紳士が歩み寄り「胸のバッジからすると、君は僕の後輩だね。行先も同じようだ。車で送ってあげよう」と言ってくれた。恐縮する私に「遠慮はいらない。いつか君が後輩にお返ししてあげればいい。先輩が後輩の面倒をみるのが、我が大学の伝統だよ」と語った。
 私たちは生きる過程で楽しいことや辛いことなど様々な体験をする。その一つひとつがその後の人生を形づくる源となっているのではないだろうか。ところで私はまだ後輩にお返しをする機会を得ていない。そのこと一つとっても悔いの残る人生に思えてしまう。

●平成28年1月

 11月下旬のある日、昼間しゃべりすぎたせいだろうか、帰宅すると声が出なくなっていた。2~3日で治るかと高を括っていたが、約3週間そんな状態が続いた。2度と声が出ないのではと不安な気持ちに陥っていった。幸い程なく回復したが、言葉を失った人たちが浮かんだ。日頃当たり前のように会話している自分が、無頓着な人間に思えた。
 そんな思いで新聞を眺めていると「失って得られるもの」という見出しが目に留まった。筆者によれば、ヒトの出現以前から地球上に存在する微生物(植物)はどんなアミノ酸でも自前で合成できるが、あるとき突然変異によって合成能力を失った微生物(植物)が現れた可能性があるとのことだ。致命的な出来事だったが、わずかに動くことによって、他の食物の探査を始めた。そして次第に動く能力を進化させていった。動物の誕生である。
 筆者はこのユニークなアイデアに続けて「欠損や障害はマイナスではなく、常に新しい可能性の扉を開く原動力になる」と結んでいる。私自身失ったもの、そこから得られる新しいものがあるかじっくり考えてみることとしたい。
引用 朝日新聞 (H27.12.17朝刊) 福岡伸一の動的平衡 (3)
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