施設長コラム「つれづれ草」(平成30年)

●平成30年12月

 最近ドイツを含めヨーロッパでは難民排斥を掲げる政党が勢力を伸ばし、ブラジルでは軍事政権を賛美する人物が大統領選を制した。米国でも議会への信頼度が年々減少しているという。こうした背景には民主主義への不信感があるのかもしれない。 戦後諸外国では経済復興と民主化が歩調を合わせて進展し、生活の豊かさと民主主義が一体のものとして実感されてきた。しかしここ数年欧米諸国では経済成長が鈍化するとともにナショナリズムが台頭しそこにポピュリズム的現象が見られるようになったが、もしその背景に生活への不安があるとしたらその不安はうねりとなって新たな救い主を求めがちなものである。
第一次大戦後、莫大な賠償を突き付けられたドイツでは国民の不満がヒットラーの出現を許してしまったし、日本でも政党政治に対する国民の不信が軍国主義を招いた一因だとも言われている。民主主義は人類が手にした理想の政治形態と思えるがその維持には公平な社会と日々の安定した生活の保障が何よりも大事なことであろう。人はパンのみによって生きるにあらずといっても人間は「貧すれば鈍する」一面を持っている。今後もポピュリズムはそうした人間の弱さに付け込んできそうである。

(朝日新聞 「ポピュリズムの台頭」ヤシャ・モンク氏記より一部引用)


ポピュリズム:一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、既存の体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のこと。

●平成30年11月

 10月中旬 秋の気配を感じた私は、箱根の旧街道を歩いてみたくなった。湯本から須雲川沿いに双子山を右手にみながら元箱根に抜けるこの街道は徳川3代将軍家光の頃に作られた。当初は悪路であったが、参勤交代の制度化に伴い石畳へと改修されたという。
 今回は途中までバスを利用した。下車すると江戸時代初期から続く老舗の「甘酒茶屋」があった。薄暗い店内からは当時の人々の息遣いが聞こえて来るように思えた。一服した後「箱根街道 元箱根まで40分」と記された道標に従って、杉並木に挟まれた小石の混ざった石畳を歩いた。時折スニーカーの足元に尖った小石が当たり軽い痛みを感じた。その感触は藁草履で歩く旅人達の情景を思い起こさせた。やがて「権現坂」まで来ると芦ノ湖が視界に入ってきた。かつて箱根路を登る旅人が、急所難所をあえぎ辿りつき一息ついた場所だという。
 今まで参勤交代というと「下にー、下にー」と悠長に歩く行列姿ばかりを思い描いていたが、認識は一変した。箱根超えは並々ならぬ苦労があったことだろう。わずか1時間あまりのハイキングだったが、想像だけを頼りに物事を判断する危うさを知ることとなった。

●平成30年10月

 神奈川県では介護現場の苦労話等を語った作品を募集している。今年で7年目とうい事だが、県の担当者から「当施設の職員K君の作品が入選候補になっている、ついてはその内容が真実か調べに行きたい」との連絡があった。調査に来られた方は詳細に作品を作った過程を聞き取ったが、会話を進めるうちに彼の人柄に惹かれていったようだった。
 現在人類は万物の霊長として地球に君臨しているが10万年程前の氷河期には人類滅亡の危機に遭遇した。その時お互いに『分かち合う、助け合う、慈しみあう』心を育んだおかげで難局を乗り切ることができた。旭ヶ丘では人間本来兼ね備えているこうした気持ちを大事にして日頃の業務を行っていきたいとの思いから「人間として人間らしく生きる気持ちを尊重する」事を理念としている。
 彼の作品は『ありがとう』の言葉で埋め尽くされていた。経験が浅かった彼は1人の利用者から感謝する気持ちは相手に求めるのではなく、自らが感謝する心を持つ大切さ教えられたという。私は作品の中に旭ヶ丘の理念を読み取ることができた。彼の作品を読んで感動するとともに、自らもまた利用者や職員そして地域に感謝する気持ちを持つ事の大切さを教えられた。

●平成30年9月

 サーカスを観に行ったときの話である。電車を降り改札口を出ると、パンフレットを配る一団があった。手に取った紙面は動物虐待を訴える記事で溢れていた。  訓練中に受ける悲惨な状況描写から始まって、アシカやイルカが芸を覚える過程や動物園の動物たちを憐れむ記載があった。更に肉・魚の摂取から始まって毛皮のコートの使用も虐待に繋がるという。
 私はパンフレットを見るうちに何が正しいのか、人間とは何か分からなくなってしまった。何十億年という長い歴史の中で生物は進化を重ね、弱肉強食の世界が繰り広げられてきた。約700万年前にチンパンジーと枝分かれした人類も過酷な環境のなかでは防寒具として毛皮を使用したし彼らを食料の糧や家畜として活用することによって種の繁栄に力を注いできた。
 原人類、旧人類等を経て進化の最終段階を迎えた私たち新人類にとっても、その遺伝子は引き継がれているし今も他の動物の犠牲を必要とすることに変わりはない。また子供から大人への成長の過程では動物の生態系を学ぶことも必要だろうし、彼らと接点を持つことで「思いやる、慈しみ、分かち合う心」を学びとるができていくのではないだろうか。

●平成30年8月

 7月に入りうだる様な暑さが続く中、国会ではカジノ法案の成立を巡って白熱した議論が展開されている。この法案の目的は「総合型リゾートを作って観光客を呼び込み、財政難を改善しよう」とのことで、経済的効果や雇用の促進などのメリットが見込まれているが、治安の悪化やギャンブル依存症の増加などデメリットな面も抱えている。
 そのギャンブル依存症対策として、日本人客がカジノ利用する際には①チップの購入は現金のみとすること②日本人にだけ一定の入場料を課すこと③利用回数は週3回(月10回)までとすることなどがあげられているが効果はあるだろうか。  
 そもそもギャンブル依存症に特効薬や効果的な治療法があるわけでもない。米国の「精神疾患の診断と統計マニュアル(DSM-5)」では衝動性をコントロールできない精神疾患として位置づけられている。そして厚生労働省の調査によれば日本人のギャンブル依存症の割合は諸外国に比べて突出して多いという。ギャンブル問題と向き合う専門の医療機関も少ないなかで、この法案の成立によりさらにギャンブル依存症が蔓延してしまったら、被害を受けるのは直接的・間接的を問わず私たち国民一人ひとりである。

●平成30年7月

 71歳を目前に控えた私は自動車免許の更新時、高齢者講習を受けなければならなかった。やむなく私はネットで自動車学校を検索した。緑の木々で囲まれた学校は免許取得を目指す若い男女で溢れていた。その片隅に私と同類と思しき小さな集団があった。
 講習の内容はビデオによる交通ルールの説明や動体視力・夜間視力の測定そして運転技術の再確認だった。免許を取得して50年、大きな事故も起こさずにきた私は、それなりに自信を持っていたが、結果には愕然としてしまった。動体視力も夜間視力も68歳を境にして急激に衰えるとのデータを予め知らされていたが、私の検査結果はそれ以上に悲惨な数値を示していた。又運転においても試乗を終えた私に指導員は「一時停止をしませんでしたね」と伝えた。納得のいかない私に「あれは一時停止でなくて瞬間停止です」とぶっきらぼうに言い放った。
 最近知人の名前が思い出せなかったり、書類の置き忘れ等何かと歳を感じることが多いが、今回の講習は老後への道を一歩一歩進んでいることを如実に示していた。すっかり自信を失くした私は、いつの間にか降り始めた小雨の中を駅に向かって一人歩いていった。

●平成30年6月

 私は本屋さんの片隅で懐かしい名前を見つけた。その名は「永遠の妖精」と謳われたオードリ・ヘップパーン。高校時代に観たデビュー作「ローマの休日」に登場したショートカットに細いウエストの溌剌した彼女の姿はどこまでも清々しかった。
 デビュー後数々の映画によってスターの道を築いたオードリは58歳のときユニセフと出会ったことをきっかけに、63歳で亡くなるまで残りの人生を戦争の犠牲や飢餓に苦しむ子供たちの救済や支援のために捧げた。「特別親善大使」として難民キャンプを訪れた彼女はその惨状を世界中の人々に訴え続け、やがて「ジーンズをはいたマザー・テレサ」と呼ばれるようにもなった。
 幼い頃に陰惨な戦争を体験するとともに家庭環境にも恵まれなかった彼女は、心の奥深くにある愛を大事にし、ユニセフを通して自分の「使命」を知ることとなった。偶然手にした本は、彼女の美しさの本質が心の内面に潜んでいたことを教えてくれた。『私たちは生まれたときから愛する力が備わっています。それは筋肉と同じで、鍛えなくては衰えていってしまうのです』というオードリの言葉は私の胸を突き刺すようにいつまでも残った。
*「オードリ・ヘップバーンの言葉」山口路子著(大和書房)より一部引用

●平成30年5月

 一回の採血しかも一滴の血液で、癌を発見する夢のような医療の実現が迫っているという。癌による死亡を防ぐには、早期発見が重要なことは言うまでもない。現在癌を発見するために、内視鏡検査や画像診断などが使われているが、初期段階の小さな癌を見つけるのは困難が伴うし、検査等で放射線を浴びる事で逆に癌が発症してしまう恐れもある。こうした問題点の解決に向け、血液中にある「マイクロRNA」という成分に着目した研究が進められているという。
 「マイクロRNA」は血液や尿など体液に含まれているが、癌細胞の自らマイクロRNAを分泌する性質に着目し、その変化によって癌細胞の有無を確認できるとのことだ。従来の診断ツールの「腫瘍マーカー」は初期段階の罹患では診断が難しかったが、「マイクロRNA」は初期段階でも高い確率で癌の発見・特定が可能だという。
 国の支援を受けた複数の企業によるこのプロジェクトは、十三種類の癌を一度に判別できる技術を目指していて、試算によれば検査費用は二万円程度で済むという。更にこの技術は認知症や心筋梗塞・脳梗塞の発見にも応用できるらしい。私の命のあるうちに実現すればとても嬉しい話である。
文芸春秋 5月号「病気にならないからだ」より抜粋 落合孝広 著

●平成30年4月

 前文部科学事務次官の前川氏が某中学で行った講演について、文科省は市教育委員会に講演内容を尋ね、録音テープの提供を求めたうえに道徳教育を行う学校での講演について校長の見解を求めたという。こうした行動の発端は複数の自民党国会議員が文科省への照会したことにあったという。
 その講演内容は、中学生やその保護者を前に幼少時代の話や科学技術で変わる社会について論じ、ボランティアとしてかかわっている夜間中学でのエピソードなどだったという。前川氏は在任中、夜間中学の充実を目指す「教育機会確保法」の制定に関わった。そして退官後の現在は学校に行きたくても行けない人々に目を向け、夜間中学の充実に力を注いでいる。前川氏の行動は道徳心に富んだ行為であり、まさに教育の淵源(えんげん)がここにあるように思える。
 文科省が今回の調査を自らの判断で行ったとは考えにくいが、もしそうだとしたら今回の行為が戦前の思想統制に繋がっていくのではないかと不安が増してしまう。

●平成30年3月

 平均余命が伸びるなかで、元気高齢者という言葉が注目されるようになってきている。引用した著書の作者は医師として人生最期の日を迎えるまで、「楽しみ」を見つけ前向きに生きた人達を何人も見てきたという。がん患者と長年接する中で、「治療方法に疑問を持ち、悲観的な人」より「絶対に治ると信じ、闘病生活中も楽しみを見出す人」の方が痛みの訴えも少なく、治癒率も生存率も高いことに気付いた。健康寿命のことばかりを心配し人生を楽しめていなければ本当の意味での“元気”とは言えないのではと考えた彼はエンドルフィンの作用に注目した。エンドルフィンには脳内ホルモンの一つで大量に放出されるとモルヒネの6~7倍もの鎮痛効果があるとともに「快楽」という感情を引き起こし、多幸感を増幅させる効果も含まれているという。
 このエンドルフィンは、大好きなことをしているとき、褒められたとき、他人から注目を浴びたとき、心がときめいているときそして楽しく笑うときに沢山放出されるという。人生最期の日まで楽しく暮らすにはポジティブな気持ちとともに笑いの中に身を委ねることが大切なようだ。まさに「笑う門に福きたる」の精神が「快楽寿命」に繋がるように思えた。
参考文献「健康寿命より快楽寿命」(奥仲哲弥 著書)

●平成30年2月

 戦争により廃墟と化した日本は約70年を経て先進国の仲間入りをしたが、一人ひとりの生活は幸せといえるのだろうか。そんな疑問を持つ私の目はデンマークを紹介する新聞記事に吸い込まれていった。
 デンマークは税金が高く給与の半分は所得税で取られ、消費税も25%で物価も高いが、国連の幸福度調査では常に上位だという。「幸せ。社会が守ってくれるから、寝る場所や食べ物に困らず、心配事が少ない」と語る人もいるし公的機関の調査によれば「税金を喜んで払っている人の割合は多い」とのことだ。
 その理由は福祉制度の充実にあるようだ。公的年金や児童手当の他失業手当や職業訓練も手厚く医療費は無料。更に大学の学費も無料で返済不能の給付金までもらえる。「デンマークは世界で最も幸福な国であると同時に最も不幸な人が少ない」と記者は述べている。
 日本では来年予定されている消費税引上げの際に様々な意見が交錯することと思うが、社会福祉の充実を含め国民の幸福感が高まるなら私は引上げ賛成の立場を取りたい。ただその前提として税金の使い道や使い方について限りない透明性が担保されることがなによりも大事なのは言うまでもないが。
朝日新聞 H30.1.10 「幸せのかたち」より一部引用

●平成30年1月

 11月下旬 久しぶりに奥多摩を歩いた。生憎の天気だったが午後には回復するという天気予報を信じて家を後にした。
 早朝の奥多摩駅は靄の中にあった。国道を少しばかり歩いた後、私は川沿いの遊歩道へと足を進めた。湿り気を帯びた空気が胸に吸い込まれていった。川沿いには紅葉した木々の葉が広がりエメラルド色の川面からは妖精が今にも飛び出してきそうに思えた。自然のおりなす造形美は人間の叡智をはるかに超えていた。
 気が付くと雲の切れ間から光りがこぼれてきた。未舗装の道幅は狭く、ごつごつした岩に何度か足をとられそうになった。時折カヌーに興じる姿をみることもあった。3時間近く歩いてようやく吊り橋にたどり着いた。断崖は真紅や黄色の葉で覆われていた。40m下には岩肌をぬって流れる水しぶきがあった。私の疲れはその流れの中に吸い込まれていった。
 過去何度か奥多摩を訪れているが、70歳を過ぎてもこうした散策が出来ることが嬉しかった。何事にも代えがたい幸せを感じた。健康な体に産んでくれた両親に感謝した。標高のせいではないだろうが、普段より両親を身近に感じたように思えた。
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