●令和元年12月
1896年クーベルタン男爵の提唱により開催されたアテネ大会以降、オリンピックは長らくアマチュアの祭典とされてきた、しかし1974年ブランデージIOC会長が退くと、段階的にプロの参加が認められていった。
その背景には、トップアスリートが無収入やスポンサー無しで競技を続ける困難さがあった。また世界トップの選手が参加した競技を観たいという私たちの願望もあった。運営費の捻出はIOCにとって頭の痛い問題だったが、プロが参加することによって、放映権料は開催毎に増大し今ではIOCの大事な収入源となっている。実際アメリカのNBCは2032年までの放映権料として7,800億円を支払っている。その見返りとして、開催月や決勝の時間帯はアメリカの事情に合わせて設定することが暗黙の了解となっているらしい。前回の東京オリンピックは1964年10月10日快晴の下で開催された。爽やかな気候はオリンピックの魅力を伝える重要な役割を担った。
今回もオリンピックに合わせ世界各国から沢山の観光客が訪れるに違いない。もし満開の桜や紅葉の時期に開催すれば最高のおもてなしとなることだろう、日本のみならず今後開催期間の決定を開催国の判断に委ねるとしたなら、天候に左右されないスムーズな大会運営とともにより躍動的なアスリートを目にする機会が増えるのは間違いないことだろう。
●令和元年11月
強い勢力を保ったまま上陸した台風19号は、東海から関東、東北と広い範囲にかけて河川の氾濫や土砂災害など大きな傷痕を残した。発生から海上で勢力を増大させた要因として、平年より海水面温度が1~2度高かったことがあげられている。気象学の専門家は「地球温暖化による気候変動の影響で台風の強度は高まる傾向にある。そしてこれまで以上に日本に上陸する可能性がある」とコメントしている。
地球温暖化の影響は様々な分野で問題となっているが、お米も例外でない。温暖化による収穫量の減少が見られるとともに品質も低下するという。最近、温暖化しても美味しい味わいを失わない暑さに強い稲の実現に向けて取り組む研究者の記事を目にした。
私には驚きだった。もともと熱帯性植物の稲は寒さに弱かった。明治後半から昭和にかけ生産力の増大を目指した国は冷害に強い品種改良に力を注ぎ「陸羽1号」や「水稲農林1号」を産みだした。そんな中、冷害に心を痛めた一人に宮沢賢治がいた。岩手県盛岡農学校の教師だった彼は職を辞して冷害に苦しむ農民等の指導にあたった。急に懐かしさを覚えた私は彼の履歴を記した著書を早速買い求めた。機会があれば宮沢賢治についていつかお伝えしたいと思っている。
●令和元年10月
夏目漱石の作品「行人」の下記の一節はいかにも漱石らしい含蓄に富んだ箇所である。
『モハメッドは向こうに見える山を、自分の足元へ呼び寄せるから見たいのは何月何日を期して何処へ集まれといった。期日になって幾多の群衆を前にモハメッドは約束通り大きな声を出して、向こうの山へ此方へ来いと命令した。しかし山は三度呼びかけても動かなかった。そこで彼は群衆に向かって「約束通り自分は山を呼び寄せた。然し山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くより外に仕方があるまい」彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いていったそうです』
十数年前臨床心理の勉強を始めた私は、交流分析の創設者エリック・バーンに出会った。交流分析は、人間の行動に関する心理療法の一つだが、そこで学んだ<人生において自分の過去を変えられないのと同じように他者を変えることは難しい。他者と良好な関係を築くためにはまず自分から歩み寄ることが大切だ。>という命題はまさしくモハメッドの行動をさしていた。常日頃からこの命題を大事に生活したいと思っているが、自らの行動に取り入れるのは難しく、私の人間形成にとって永遠のテーマとなりそうである。
夏目漱石著「行人」より一部転載
●令和元年9月
8月の半ば奥多摩を訪れた。その日も暑い一日だった。大木に挟まれた小路(こみち)を河辺に向かって下っていった。爽やかな風を期待したが、木々の葉はわずかに揺らぐ程度だった。蝉の声が辺り一面に響き渡っていた。何とも言えない懐かしさを感じた。心に溶け込んでいく蝉の声は私をはるか昔の自然と戯れる子供の頃の世界へと誘(いざな)っていった。
旭ヶ丘老人ホームの施設長に就任したのは今から14年程前だが、当初は蝉の声をよく聞いたものだった。「夕立の過ぐる否やに蝉の声」はその頃詠んだ俳句である。しかしここ数年蝉の声をとんと聞かなくなったしトンボの姿もみかけなくなってしまった。
1990年代ヨーロッパ諸国ではネオニコチノイド系農薬の使用が蜜蜂の減少を招くとの認識から相次いで使用禁止となった。また癌の発症要因とされている「グリホーサート」を主成分とする農薬はEU諸国の多くで販売禁止となっているし、アメリカでは2つの州でこの農薬が元で癌が発生したとの患者の訴えにより多額の賠償金命令がなされている。一方日本ではいずれの農薬も使用禁止になるどころか逆にその使用基準の緩和に向かっている。使用し続ければ生態系の変化に留まらず、農薬を散布された穀物を通して私たちも多大な健康被害を受けるのではないかと不安は増すばかりである。
●令和元年8月
先日ランチバイキングを兼ねた日帰り温泉に行った。食事の場には魅力的な料理が多数並べられていた。サラダから始まり次々口にする料理で胃袋は悲鳴をあげていった。その後露天風呂に身を沈めた私は風に揺らぐ山々の木々を眺めながら何とはない時間を過ごした。贅沢な一日に思えた。
夜、くつろぎながら観たテレビはケニアの貧困を伝えていた。ケニアでは3,000人以上の人がごみの山と呼ばれる地域で暮らし、彼らはかき集めたプラスチック等を僅かばかりのお金に換え日々の生活の糧にしているという。辺りにはメタンガスが発生し悪臭が立ち込めていた。
世界に目を向けると10人に1人が1日約200円以下の生活を強いられている。又年間350万人以上の子供達が飢えに苦しみ、5歳を待たずに亡くなっているという。以前「あなたは貧困が社会的不正義だと思いますか」と問いかける新聞記事を目にした。「うん。不正義だ」との思いとは裏腹に日頃株式相場に一喜一憂している私にとって、バイキングで口にした甘いデザートは悪魔の誘惑にも思えた。
●令和元年7月
先日知り合いの女性の御主人の葬儀に参列した、私を含め子供夫婦等総勢8名の家族葬だった。棺は種々の花で埋め尽くされ、その中央にご主人が眠っていた。その表情はどこまでも穏やかだった。魂はいち早く家族に見守られながら極楽浄土へ旅立ち始めているように思えた。棺を覗き込む子供等の目は涙で溢れていた。彼女はただ茫然としていた。お経を唱える僧侶の声が柔らかく生花や棺の中に溶け込んでいった。
火葬場での待ち時間、子供等が父の思い出を語りあっていた。孫にとっては初めて聞く話もやがては次の世代に語りつがれていくことだろう。高温で焼かれた遺骨はさらさらとしていた。78年の生涯で身に着けた苦しみや悲しみ等全てを捨て去り「無の世界」に帰しているように思えた。
今回通夜から告別式そして骨上げまで臨んだ私は、第三者の立場だった。家族の醸し出す心の動きや葛藤を傍らから見つめていた。親族の葬儀では味わえない感覚だった。そのこともあってか人として生を受けこの世に時を刻む存在の大きさに思いを巡らす二日間となった。
●令和元年6月
以下は当施設の開所記念式に当たり、入所者を前にしての私の挨拶の抜粋である。
「満開の桜の後は鶯の声、つつじの花の後には暑い夏、秋風になびくコスモスが姿を消すと紅葉が、そして冬が過ぎればまた春がやってくる。旭ヶ丘はそんな美しい自然の営みを36回も繰返してきました。
この古い施設を訪れる方々から『施設は古いけどとても綺麗で、職員たちもゆったりしていますね。』とお褒めの言葉を頂くことがあります。施設が醸し出すこの雰囲気は、ここで働く職員と皆様との和やかな家族のような関係が生み出すのではないかと私は思っています。これからも仲の良い家族のような関係を作っていく為には法人や職員の努力は当然ですが、皆様一人ひとりもお互いを大事にしあいながら暮らすことも大切なことでしょう。喧嘩することもあるでしょう。でも大事にする気持ちがあれば、喧嘩はすぐ収まります。同じ時間を過ごすなら笑顔に包まれて過ごしたいものですよね。是非、これからの人生を皆で楽しく暮らして行きましょうね。」
●令和元年5月
平成が終わりを告げ令和となった。平成6年に理事長に就任した私はその10年後施設長を兼務し、月1回「お楽しみ会」と称して入所者と接する場を設けた。そこでは一緒に百人一首をしたり話しの時間を持ったりした。Tさんは超高齢にもかかわらず私の恐竜の話を目を輝かせて聞いてくれた。認知症でつい少し前のことを覚えてないHさんは教育勅語を滑らかな口調で最後まで一気に暗唱した。そうした姿はとても可愛らしかった。歳の差もあってか、最初自分とは別世界の人間のように思えたが、時を重ねるうちにいつしか私の何年後かの姿を彼らの中に見るようで、親しみの感情と同時に人間としての共通点を見た気がした。
そして令和、介護される側へと私の立場は逆転しつつある。その私が若者から親しみを持ってもらうには、彼らに何かを求めるのではなく私が若者を受け入れる心の柔軟さを保つことが必要で、そのことで彼らも私の中に共通点を見出してくれるのではないかと思うようになった。