施設長コラム「つれづれ草」

つれづれ草

●令和6年3月

下記の作品は以前出版した「老人ホームの窓辺から」に掲載した作品である。
『12月の中旬、早朝まだ暗い内にコートの襟をたてて外に出ると、満月とおぼしき月が西の空に沈もうとしていた。そして、仕事を終えた夕方6時過ぎ、その月は東の空に位置をかえていた。小学校3,4年の頃、月食を観察しようと徹夜で空を眺めたのも、はるか昔のこととなってしまった。その当時、私はローラースケートに凝っていて、学校が終わると友達とスケート場によく通ったものだった。そんな私を見て、ある時母は「スケート場には不良がいるかも知れないから気をつけるのですよ」と心配そうに注意した。「そんなこと言ったって、誰が不良か分からないよ。だって不良という目印はしてないでしょ」と私は答えた。見えないものを見る眼の大切さに気付いたのはいつ頃からだろうか。経験を積む中で、少しは身についてきたとは思うが、最近見えないものの中に輝きを見出せたら、もっと豊かな人生が送れそうな気がしている』
24年前の作品だが、見えないものを見る能力は身に着いたのだろうか。最近は歳を重ねて得た経験が正しい判断の妨げとなったり感動する心の柔軟さもめっきり衰えてきているのではないかと危惧している。
施設長 井 上 節

●令和6年2月

正月、時間を持て余した私は本棚から学生の頃読んだ道草(夏目漱石)を取り出した。前回は筋書きを追うだけだったが、今回は漱石の世界に浸って読み進んだ。道草は神経衰弱(当時の病名)を患っていた漱石の自叙伝的な作品で幼い頃の養父母や妻鏡子等らとの実体験に基づく人間関係が語られているが、それぞれの心の内面が冷静な視点で描かれている。特に妻とのやり取りでは自身の自虐的な表現とともに妻の言動にも心理学者のような分析がなされている。さすが頭脳明晰な漱石ならではの考察と感心させられる点が多々あるが、漱石の死後妻が綴った「漱石の思い出」を読むと事実はかなり違ってくる。彼女を天下の悪妻だったとする一説もあるが、漱石の精神症状はかなり病んでいて、病の重い時には被害妄想が強く無理難題を押し付けたり激しい言葉を投げつけたりしたという。心配する実母は彼女に離婚を促したが「夫の言動は精神を病んでいるからです。夫が病気なら看護するのが妻の役目です。私以外に夫を守る人はいません」と涙を流して決心のほどを打ち明けたという。良妻の妻鏡子の存在が漱石の偉大な業績を産んだのかもしれない。そして漱石の心の病には、幼い頃父親から満足に受けられなかった愛の不足が起因しているのかも知れない。
施設長 井 上 節

●令和6年1月

ロシアによるウクライナ侵略が始まって約1年が経過した。また作年10月にはパレスチナ自治区を実効支配するハマスがイスラエルに大規模攻撃を仕掛けた争いでは双方で約2万人が命を落としたという。
人類の歴史は紛争の歴史といっても過言ではないが、私たちは文明の発達とともに自由権や生存権といった個々の人権を尊重する社会を目指してきた一方で第一次世界大戦の死者数が2,600万人と言われているように20世紀になってから戦争による犠牲者数は急激に増大していった。本来文明、文化の発達は科学技術の進展を伴って暮らしやすい社会の形成に結びつきそうだが、現状は各国が先端技術を取り入れた軍備の増強や防衛能力の強化に心を奪われている。
国際社会は第二次世界大戦の反省から、国際法の支配による平和を目指しているが、アメリカの影響力の低下もあって令和6年は世界各地で今まで以上に紛争や衝突が多発する恐れがあるという。その要因として歴史的背景や宗教の違いが考えられる。また攻撃しなければ攻撃されるといった不安心理や生活水準の不公平感も手伝っているのではないだろうか。民主主義も共産主義も目的は公平な社会の実現だが、実現までにはまだまだ多くの壁が待ち構えていることだろう。
施設長 井 上 節

●令和5年12月

 ここ数年多くの介護施設の食事提供は外部委託形式を採用していますが、「高齢者にとって食事は大切な楽しみの一つだから美味しい食事を食べて頂きたい」との思いから旭ケ丘の調理業務は開設以来外部委託せず直接行ってまいりました。そして原材料の調達にも拘り、国内製造の厳選されたかつお節を使用しただしパックはもとより、卵は地元の養鶏業者から高級料理店でも使用する卵を、お酒は料理酒ではなく地元の蔵元から銘柄品のお酒を仕入れています。また日本茶には高級深蒸し茶を採用しています。お陰さまで特養やデイサービスのご利用者様からは「旭ケ丘の食事は美味しい」といったお褒めの言葉をたくさん頂戴しております。こうした食事は管理栄養士が皆様の健康に気を配りながらその指導のもと先輩から引き継いだベテランの調理員の手によって作られていますが、旭ケ丘では素材の美味しさを引き出す「スチームコンベクション」を時代に先駆けいち早く導入した事も美味しい食事の提供に役立っているといえるかも知れません。
 最近食材費や水道光熱費等の値上がりが続き美味しい食事の提供には種々の問題が生じておりますが、旭ケ丘は今後もご用者様に喜んで頂けるような食事の提供を目指してまいります。
施設長 井 上 節

●令和5年11月

 以下は当ホームの職員(工藤 達也)が神奈川県主催の「介護に関わる作品展」で優秀賞を獲得した作品です。 『Aさんはいつも折り紙でチューリップを作っては他の利用者様へお渡ししたり、職員にも渡すのが日課となっています。渡す時に、「このゴミをもらってくれねぇか?」と、少し照れたような表情になります。定期的にチューリップをいただいている私は、「そんなに無理しないで大丈夫ですよ」と伝えました。Aさんは何事もないような表情で、「ボケの防止になるからよぉ、Bさんに教わったことをただやりたいんだよ」とのことでした。Bさんはひたすらにチューリップを折っては、みんなにお渡しして笑顔の花を咲かせる、「花咲かおばあちゃん」でした。そんなBさんの横にはいつもAさんがいました。いつの間にかAさんも、Bさんと一緒にチューリップを作っていました。Bさんがお亡くなりになってからも、Aさんの行動は相変わらず、今でもずっと折り紙を折っています。わたしの娘が幼稚園に通っていた時、Aさんに、「娘の幼稚園のお友達に、Aさんの作ったチューリップをお渡ししてもいいですか?」と尋ねると、嬉しそうに大量のチューリップをいただきました。登園時、娘にチューリップを持たせたその日の帰り、「みんながね、すごく嬉しそうにチューリップをもらってくれた」と、嬉しそうに話す娘を見て、私もすごく嬉しかったです。BさんからAさんに受け継がれた命を繋ぐ花。Aさんが作ってくださる花のおかげで私の周りでは、たくさんの笑顔の花が咲いています。』
施設長 井 上 節

●令和5年10月

 9月の声を聞くと、今年も又勝沼を訪れた。向かった先は10年以上前から馴染みのぶどう園で、生産・販売にあたる気さくなご夫婦の人柄に親しみを感じていた。当初訪れた頃は巨峰に代わってピオーネがそしてその後からかはシャインマスカットが登場した。 その間にもロザリオ、甲斐路、サマーブラック、我が道等と毎年新種のぶどうを紹介してくれた。そして今年は薦めに従ってバイオレットキングを買い求めた。こうして毎年新しい品種が作り出される背後には、生産者のひたむきな努力が隠されているのだろうが、その生産者の期待に応えて遺伝子を変化させるぶどうの柔軟性は私に生きるヒントを示しているようにも思えた。
 勝沼のぶどうと言えば私には忘れられない思い出がある。結婚したての頃、毎年お盆休みには義父の所有する蓼科の家を訪れた。まだ高速道路が開通していない時代で勝沼あたりは大渋滞を繰り返していた。その年もぶどう園に差し掛かると遅々として進まず、夏とはいえ辺りは暗闇に包まれていった。長時間の運転で尿意を我慢できなくなった私たちはぶどう園の脇に車を止めて用を済ませた。ほっとして見上げた先には鈴なりのぶどうの房があった。ちょうど種無しぶどうが出始めた頃ではなかったかと思う。そのぶどうの甘酸っぱさは泥棒をしてしまった後ろめたさとともに今も心に残っている。
施設長 井 上 節

●令和5年9月

 言葉は生き物と同じで、時代とともに変化するが、同時代に生きる私たちの間でも違って解釈する言葉や慣用句がいくつかある。
 例えば「取り敢えず」は辞書によれば「取るべきものも取らずに」ということから立ちどころに、何はさておきといった緊急の事態に対処する様子を表した言葉と記載されているが、日頃私たちは「取り敢えず〇〇にしようか」のように一先ずといった軽い意味で使っていることがある。ある友人は〖主治医から「取り敢えず胃カメラを」と言われたが直ぐに検査がさし迫った症状とは思わなかった〗と語っていた。このように解釈の違いから相手の真意が伝わらず仕事でミスしたり人間関係にひびが入ったりと予期せぬ結果を招いてしまうこともある。
 そこで下記に意味を間違えやすい語句をいくつか挙げてみることとする。

*穿(うが)った見方 〇本質を見抜く見方 ×ひねくれた見方
*王道 〇安易な方法 ×お定まりの方法
*割愛する 〇惜しみながら放棄する ×必要のないのを省略する
*気の置けない人 〇気を使う必要が無い人 ×気を許せない、油断できない人
*潮時 〇ちょうど良い時期 ×物事の限界、これ以上無理と判断した時期
*他山の石 〇戒めにすべき他人の失敗や間違え ×手本にすべき他人の失敗や行動
施設長 井 上 節

●令和5年8月

 20年以上ドイツで暮らす娘夫婦が3人の子供を連れて1週間ほど里帰りした。孫たちに会うのは7年前私がドイツを訪れて以来のことだった。13歳になった双子の姉妹は少女から大人になりかかる年齢で、以前ドイツを訪れたとき、かくれんぼ等して遊んだ面影は消えていた。またブランコに足が届かなかった末娘もたくましく成長していた。滞在中孫たちは、娘や妻といくつかの観光地を訪れたが、私は鎌倉見物に同行した。小町通りから鶴ケ丘八幡宮そして大仏とゆとりある計画で臨んだが、歩道を挟む土産屋の前で孫たちの足は止まりがちだった。特に脇道で見つけたかんざし屋さんに双子の娘は釘付けとなった。あれこれ迷ったあげく選んだかんざしを挿した容姿はほんのり大人の雰囲気を醸し出していた。その後私たちは由比ガ浜にも行った。海水浴場から少し離れていたせいか人影はまばらだったが、裸足になるとすぐに海に向かって走り出し、膝まで浸かりながら打ち寄せる小波と楽しそうに戯れていた。
 私は日頃孫たちの存在は人生のおまけというか、銀行預金の利子のようなものと考えている。褒められた子育てでなかったにも関わらず、孫たちの健康的な姿を眺めているうちに、私は娘から本来受け取る以上の褒美をプレゼントされたのかもしれないと感謝する気持ちになっていった。
施設長 井 上 節

●令和5年7月

 「天声人語」の筆者は、若者達が<ボロクソ良かったよ>と語っているのを耳にして驚いたという。「全然いいよ」と肯定的な使い方を耳にすると不快に感じることが私もある。しかし明治時代に結ばれた日韓併合条約では「全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と肯定的に使われていた。また夏目漱石や芥川龍之介といった文豪の作品中にも「全然」を肯定的な言い回しで表現されている箇所がある。ある説によると「全然」は江戸後期に中国語から入ってきた比較的新しい言語で日本語として定着するのは明治40年代以降になってからで、当初「全然」は否定的にも、肯定的にも使われていたようである。「全然」の使い方が時代によって変化したように言葉の意味が変化することもある。例えば枕草子に出てくる「いとおかし」も当時は趣があるという意味で使われていた。こうして考えると日本語が乱れていると目くじら立てても過半数の人が使えばそれが正しい日本語として認可されていくのではないだろうか。
 話は少し脇道にそれるが、百人一首に「逢い見ての後の心にくらぶれば、昔はものを思はざりけり」という歌があるが、当時の「逢い見て」には男女が契りを交わすとうい意味があるという。そのことを知ってこの歌を詠むと時の流れに想いを馳 せる作者の心情が鮮明に伝わってきそうである。
施設長 井 上 節

●令和5年6月

 これは今年5月中旬に開催された旭ヶ丘の開所記念式での私の挨拶の要旨です。〖今年のテーマは、【人生に幸あれ!和から輪へ】です。皆様方は戦後敗戦により物資の不足する中、一生懸命働いてきました。そのお蔭で私たちの生活は豊かになりましたが、皆様の得たものは物質的な豊かさだけでなく、長い人生経験を経て人との関わり方を学び互いを尊重し思いやる気持ちの大切さを会得してきたのではないでしょうか。四苦八苦とか七難八苦とか言うように、人生には災難や苦しみが満ち溢れていますが、幸せはどこにあるのでしょうか。
 山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う
 あー 我ひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみ帰りきぬ
 山のあなたのなほ遠く 幸い住むと人の言う
 これはカール・ブッセ(上田敏 訳)の詩ですが、なほ遠くに幸いはあったのでしょうか。私は幸せは自らに求めても得るのは難しく、相手の幸せを願う気持ちがあったとき自らも幸せに出会えるのではないかと思っています。皆様は縁があってここで生活するようになりました。それぞれ考え方に違いがあっても、聖徳太子が「和を持って貴しと為す」と言ったように和を求める気持ちが輪になったとき、生活しやすい場所となって皆様一人ひとりに幸いが訪れるのではないでしょうか。
施設長 井 上 節

●令和5年5月

 東京の山谷には 身寄りのない人を受け入れる入所施設があるという。入所者の多くは日本が高度成長期を迎えた時代に貴重な戦力として地方から都心へと吸い寄せられた人達で東京タワーの建設に関わった人もいるという。しかしその中には歳を重ねるうちに仕事を失い、路上生活を余儀なくされた者もいた。また、元ヤクザとか刑務所帰りと社会の嫌われ者だった人もいたが、この施設で死を迎えたとき「今まで誰からも相手にされなかったけどここでは自分の存在を認めて貰えた。スタッフの接し方に愛を感じた。」と感謝の言葉を残して死んでいったという。このように歩んできた人生の過程がどうであれ死を迎える際に穏やかに感謝する気持ちを持てたら幸せな人生だったといえるのではないだろうか。
 ユニセフの親善大使を務めるなど福祉に情熱を注いだオードリ・ヘップバーンは「私たちには生まれたときから愛する力が備わっています。しかしそれは筋肉と同じで、鍛えなくては衰えてしまうのです」と語っている。誰もが心に留めたい金言だが、特に高齢者介護に関わる者にとっては愛する力を鍛える事が利用者の尊厳に気を配ったケアを行っていく上からも重要だと言えそうだ。
「オードリ・ヘップバーンの言葉」(山口路子/大和書房)より引用
施設長 井 上 節

●令和5年4月

 長い間高齢者の介護に関わって来たある人によれば認知症の介護には「想像力」と「創造力」が欠かせないという。認知症の原因と言えば、アルツハイマー病などの脳疾患が思い浮かぶが、高齢者の様々な症状はそれだけでは説明不十分で、むしろ原因の多くは普段の生活の中に見出すことができるという。住み慣れた場所の移動など日常生活における環境の変化、配偶者との死別などの人間関係の変化や歩行困難など身体的な変化がきっかけにあげられるという。したがって、徘徊や暴力行為などの「問題行動」にも脳疾患以外の原因を考える必要があるという。そこで介護者は「想像力」を働かせてその原因がどこにあるかを追求し、さらに「創造力」を発揮して「問題行動」とどのように付き合っていくか工夫する事が求められるという。例えば「会社へ行かなければ」と訴える高齢者は、今の老いた自分を「本当の自分」とは思えず、若い時代に回帰することによってかつての自分を取り戻そうとしているのかも知れない。介護者はそうした行為を「問題行動」の奥に潜んだ無言の「訴えかけ」として理解し受容すること、さらに創造力を働かせてその対応を工夫する必要があるという。そのために介護者は独りよがりの思い入れや先入観の頼らず、高齢者の生活歴に視点を置いた上で、その価値観を受容する姿勢が求められるのではないだろうか。
施設長 井 上 節

●令和5年3月

 今から30年以上前、息子が中学生の頃だったろうか。年の暮を迎え、部屋の片づけをしていた私はファミコンで遊ぶ息子に向かって「お父さんはいつもお前の為にいろいろしてあげている。こういう時は遊んでないで手伝ったらどうか」と少し強い口調で嗜めると「お父さん。お父さんは日頃人に親切にしてあげても見返りを求めてはいけない。と言っているよね」との言葉が反ってきた。一本取られてしまったが、「その通りだけど、困っている人を見たら自然と手を貸したくなる。そんな気持ちになることも大事だ」と彼に伝えた。
 五木寛之氏はある本の中で「ボランティアとは人のためにするのではなく、困っている人を見たら手を貸さないと居心地が悪い。自分に不利になることでも手を貸すことで自分自身がすがすがしい気持ちになる。それがボランティアというものではないだろうか」と語っていた。
人とひととの関りは、価値観や歩んできた経験の違いからすれ違いが生じることがある。しかし職場でもお互い気を配り、支え合う気持ちで仕事に取り組んだら、「情けは人の為ならず」という諺にあるように美味しい果実を得られるかも知れない。営利企業はさておき社会福祉法人ならその土俵は作りやすいのでないだろうか。
施設長 井 上 節

●令和5年2月

 これは私が勤務する老人ホームでの利用者に向けた新年の挨拶である。
『新年おめでとうございます。朝家を出た時の気温は0度で車のハンドルの冷たさに身が引き締まりましたが、快晴の下静かな新年を迎えることができました。
 昨年はロシアのウクライナ侵攻や知床の遊覧船の沈没事故等悲惨な出来事が沢山ありました。皆様自身にもつらかったこと等色々あったと思いますが、年の初めにあたり、去年を振り返りながら、今年してみたいこと何かあるかなと考えてみてください。今朝出がけにラジオを聞いていると、昨年日大の理事長に就任された林真理子氏が「歳とともに1年を早く感じるのは何も無く日々を過ごすからで、いろんなことに興味を示しチャレンジしていると、毎日が充実していて長く感じられる」と語っていました。私たちも「今年やってみたいこと」を見つけて有意義な日々を過ごせたら良いですね。さて、今日のお昼のおせち料理は管理栄養士さんや調理員の方々が心をこめて作りました。もし美味しかったら「美味しかったよ」と声をかけてあげてください。人は誰でも他人から褒められると嬉しいものです。そして誰にも良い点はあります。お互い良い点を見つけ褒め合って過ごすと健康で充実した1年を送れるような気がします。そんな1年となりますよう願っています。』
施設長 井 上 節

●令和5年1月

 2月に始まったロシアによるウクライナ紛争、北朝鮮の度重なるミサイル発射や中国の南シナ海問題等不安に満ちた今年が終わろうとする中、岸田政権は敵地攻撃能力を備えた防衛費の大幅な増額を決めた。朝日新聞の全国世論調査によれば、「敵基地攻撃能力」の取得について賛成は56%になっているという。社会情勢を考えれば当然な気もするが、反って悲惨な結果を招く引き金となることはないだろうか。この防衛費の財源には法人税の増税を当て込んでいるというが、技術革新のための研究開発費の増額は視野に入ってないのだろうか。
 ここ20年間、日本の研究力低下が現実味を増す中、若手研究者らの間では中国に渡る「頭脳流出」が起きている。国の調査によれば、中国の論文の総数はここ数年で米国を抜き世界1位になった。一方の日本は年々順位を落とし今年はついに上位10カ国から転落したという。科学技術立国を掲げる日本にとっては研究力の低下は国の趨勢に係る問題である。国力の発展のために防衛力の強化を図るのも必要な事に違いはないが、国力の発展には、武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように人への投資がまず一番に求められるのではないだろうか。
施設長 井 上 節


●過去のつれづれ草

過去のコラムを1年ごとにまとめました。
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