施設長コラム「つれづれ草」

つれづれ草

●令和6年11月

 紅葉の季節にはまだ少し早いが、私は久しぶりに鎌倉の空気を吸ってみたくなった。向かった先はアジサイ寺として有名な明月院の少し手前にある洋館風美術館。そこには葉祥明が描く水彩画、油絵画、デッサン、直筆言葉の原画など多くの作品が展示されていて、草原や青空そして草原にポツンと配置された家や木などの絵はどれも柔らかな色調で観る者をメルヘンチックな世界に導いてくれる。また絵画には心に響く言葉も添えられていて、彼の世界に浸っていると時間が止まったような感覚に吸い込まれ、心に淀んだ塵をどこかに吹き晴らしてくれるような安らぎを味わうことができる。その効力は名僧の法話のそれに勝るとも劣らないものがある。
 館内を見終え数冊本を購入した私は、その後徒歩で鶴岡八幡宮を参詣したついでに小町通りを散策した。一万歩以上歩き身体の疲れは残ったが、逆に心は羽が生えたような軽さを覚えた一日だった。今、その素晴らしい絵画をお見せできないのは残念だが、彼の作品の中から2つほど素敵な言葉を紹介する。
 『幸せな人を見たら共に喜んであげなさい。素直にそうなれない時は自分自身が不幸せだからしかし人の幸せを一緒に食べればあなたも幸せになれますよ』、『心の安らぎこそすべての人が真に望むことそしてそれはすべての人が必ず得られるものだと知りなさい。なぜなら安らぎは外からやってくるものではなくもともとすべての人の心の裡にあるものだからです』
引用図書 Heart is(心にひびく癒しの調べ)葉祥明著 より抜粋
施設長 井 上 節

●令和6年10月

 小学生の頃、担任になったH先生は山村で育ったこともあってかよく星座の話やその見つけ方を教えてくれた。ある時一人の生徒が「先生そんなこと言ったって、空には星がいっぱいあって星座をみつけるのは大変だよ」と言った。すると先生は「星によって明るさや色に違いがあります。勉強して知識を増やすとそのうち見つけられるようになりますよ」と笑顔で答えられた。
 さて、星座の見分け方はともかくとして、私はこれまでにどのくらい知識を得てきただろうか。買い求めた多くの書物が本棚の隅に眠ったままになっている。「あなたは何でも知っていてすごいですね」と褒められたソクラテスは「いいえ、私は皆さんと同じように何も知りません。只 皆さんと違うのは知らないということを知っていることです」と答えたという。実際生きていく上で、知識の多さは仕事を選択する際の手助けになるかも知れないが、豊かな生活とは次元の違う問題ではないだろうか。落語の小話に(ご隠居)『熊さん、昼間から寝てないで少しは働いたらどうだね。』(熊)『ご隠居さん 働くとどんな良いことがあるんです?』(ご隠居)『そりゃ働けばお金が溜って昼間から寝てられるよ。』(熊)『それじゃー、今のあっしと同じでー』というのがある。
 心身の健康に気を配ることは勿論大事だがだ、豊な生活を送るための鍵は日頃の何気ない暮らしのそこかしこに隠れているのかも知れない。
施設長 井 上 節

●令和6年9月

 下記の文書は太平洋戦争の終戦から間もなくして某新聞に掲載された投書を要約したものである。『自分が戦争傍観者であったことを告白する。苦しかったその心時を伝えたい。支那事変の発展を見ながら、名分なき戦争として感ぜざるを得なかった。さらに大東亜戦争の起こるや、これは見込みのない無謀であろうと心痛した。このように判断した人は決して少なくなかった。しかし個人である自分は何の発言もできなかった。ただ己の無力を悲しむ外はなかった。そういう考えを命をかけて表明すれば、ただ命が的になるだけだった。まことに現代の人間にとっては政治が運命であるという言葉を身に沁みて覚えた。戦に協力することは尊い義務として課せられた。親しい身内の若者も、或いは特攻隊として、或いは大洋の孤島に玉と砕けた。そうしてこの戦いに敗れんかということは十分に知っていたが心から立ちえなかったことは、真に苦痛であった。この割り切れない気持ちを清算して再出発するためにこの戦争の起因とその経緯についての明白詳細な発表があることを国民の一人として要求する。われらは何一つ具体的な真相を知らないのである。8月15日の大詔(だいみことのり)は闇の中にさした光であった。悲嘆と安堵が交錯した数週は過ぎた。これからは自分は傍観者ではない。』
 二度と戦争を起こさないためにも戦争に至った検証が必要だし、それが戦争で犠牲となった人々へ償いではないだろうか。
朝日新聞 「語りつぐ戦争」の記事より(8月16日版)
施設長 井 上 節

●令和6年8月

 日本にある米軍軍事施設の約7割が集中する沖縄では、相変わらず米軍兵士による性的暴行事件を始めとして軍用機離着時の騒音等様々な問題が生じている。これらの問題は沖縄のみならず日本各地の米軍基地周辺でも起きていて訴訟に発展することもあるが、結果は敗訴か門前払いとなっている。その原因は1960年に改定された安保条約とそれに基づく日米地位協定にある。安保条約改定の少し前、米軍の用地接収に反対し米軍基地内に入った住民を国は「刑事特別法違反」で提訴したが一審判決は「米軍駐留はそもそも憲法違反だとして無罪とした。(砂川事件)予想外の判決に衝撃を受けたアメリカ政府は日本政府首脳や最高裁長官に面談し根回しを図った。その意を酌んだ最高裁長官は「日米安保条約は我が国の存立にかかわる高度の政治性を有するものなので違憲か合憲かは司法裁判所の審査にはなじまない」として一審判決を破棄した。この最高裁の判決は判例としてその後の下級審での米軍関連の判決に重大な影響を及ぼすこととなった。
そもそも安保条約改定は岸元首相によって日本側の自主性、日米の対等性を確保することを大義名分に掲げて進められた。しかしアメリカの公文書の開示によって非常時の核持ち込みの容認等数々の密約の存在が報じられていることからも、私は日米地位協定の見直しを強く願望している。
参考図書 検証・法治国家崩壊(創元社)
施設長 井 上 節

●令和6年7月

 旭ケ丘老人ホームを創設した伯父は味噌の醸造を生業としていた。私も大学で出てまもなく、後を継ぐべく就職し味噌を売り歩いた時期があった。当時の主な販売先は酒屋さんが多かった。当時酒屋さんは商売が安定していて取りっぱぐれが少ないというのが理由らしかった。
 月1回、東京方面に出向く時は早起きし神田のお店を皮切りに西へ西へと12~3か所回った。そして10時ごろ世田谷区上馬に来る頃には尿意を催すことがあった。訪ねる店は環七に面していたが、幹線道路から一歩入いると閑静な高級住宅地で人影はまばらだった。私は毎回広い邸宅の塀に向かって立小便していたが、ある時から警察官の姿をみるようになった。誰かが私の行為を密告したのではないかと訝ったが、実はその邸宅の住人は福田武夫で彼が総理大臣に就任したのを機に警備が強化された為だと後で知った。
 また、開店時に集金をお願いすると、たまたま機嫌が悪かったのか「早朝からレジの金を減らす縁起の悪いことが出来るか」と怒鳴られたことがあった。その他、御用伺いの度にお茶を出してくれるお店もあった。一宿一飯の恩義ではないがそんなお店には年始回りの際タオルを多めに配ったりして応えた。又ある時、酒問屋の所長が営業マンに「お前ら酒を売ってくるんじゃないぞ。自分を売ってくるんだぞ」とどなりつける声を耳にした。まだ若い何も知らない私にとって味噌を売り歩く中で体験した一つひとつがその後の私の人生の道標となっていった。
施設長 井 上 節

●令和6年6月

 5月10日開催された創立42周年創立記念式典で、私は助け愛、認め愛、譲り愛をテーマにして次のような話をした。
四苦八苦というのは元来仏教用語ですが、生(生まれてくる苦しみ)老(老いる苦しみ)病(病気する苦しみ)死(死ぬ苦しみ)という四苦に加え大切な人と別れなければならない苦しみ、逆に嫌いな人と出会ってしまう苦しみ、求めるものが手に入らない苦しみ、自分をコントロールできない苦しみを現わしています。このように私たちは誰でも避けて通れない苦しみを抱えていますが、出来ることならこうした苦しみを乗り越えて充実した人生を過ごしたいものですね。充実した人生を過ごす方法はいろいろあるでしょうが、他人から大事にされることもその一つではないかと思います。
 これは外国の話ですが、長い闘病生活に疲れた女性は安楽死を希望しましたが、医療スタッフの同意は得られませんでした。そこで彼女は自分の意思を貫こうと裁判に訴えたところ長い審議の果てに漸く安楽死が認められました。しかし彼女は死を選択しませんでした。「私は今まで生きることについて周りからこんなに真剣に考えて貰ったことはありませんでした。皆さんの愛を感じて私は生きる希望をもつことができました」と彼女は言ったそうです。
 このように他者から大事にされる事は、生きる喜びに繋がるはずです。他人に喜ばれるということは素晴らしいことですし、他者に与えた喜びはいつの日か自分に返ってきます。この施設で暮らす皆様一人ひとりが助け合い(愛)、認め合い(愛)、譲り合い(愛)の気持ちで過ごすような施設でありたいと願っています。
施設長 井 上 節

●令和6年5月

 今年は花冷えの日が長く続いたせいかも知れない。桜の開花から一週間が過ぎても週末の津久井湖はお花見を楽しむ人たちで賑わっていた。思い思いの手料理を囲み小さな宴会を楽しむグループの笑い声の中に、花びらがひらひらと吸い込まれていった。まさに百人一首にある「久方の光のどけき春の日にしづ心なく鼻の散るらん」といった光景を描いていた。  ところが、週明けの津久井湖は一変していた。ほんの2,3日で枝は葉桜となり散った花びらが地面を薄ピンクに染めていた。思わず私は「花さそう嵐の庭の雪ならで降りゆくものは我が身なりけり」という歌を思い浮かべた。この歌は散っていく桜を自身の老いる姿に結びつけて読んだ歌と言われている。
 私自身歳を重ねてこの先何回花見を楽しめるかわからない。「いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春いかんとす」(正岡子規)という歌にあるように私にとっても今年が最期の花見になるかも知れないと思うと妙に感傷的な気持ちになった。最近足腰の衰えが気になるが以前訪れた松田の河津桜や新緑の奥多摩をもう一度訪ねてみたい誘惑にかられた。そんな情景を思い浮べていると職場近くの山から初夏の到来を告げる鶯の鳴き声がこぼれてきた。
施設長 井 上 節

●令和6年4月

 高校生の頃、人生とは何かという命題に直面した。その答えを書籍に求めたが満足な答えは得られなかった。夏目漱石の教え子だった一人の一高生(現東大生)は「人生は不可解なり」との言葉を残して華厳の滝に身を投じた。彼の描いた人生は私の考えるそれよりはるかに複雑だったのだろうか。そして歳を重ねた今、私は青春とは何だろうかと模索している。
 ある作家が「過去を振り返り始めた時が青春との別れの始まりかも知れない」と語っていた。また、「青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」という歌もあるように青春時代の行動の背景には失敗を予測できない経験の少なさがあるのかも知れないが、年齢が進むにつれ経験した失敗例がついつい消極的な行動へと向かわせてしまうのではないだろうか。
 そんなことを考えている折、高齢の写真家 操上和美さんの「終活なんて考えない。これからもガンガンでいきますよ」という前向きな言葉を目にした。雲水が旅に出るのは何かを求める気持ちがあるからだと聞いたことがある。残された時間、社会の変化を柔軟に受け入れチャレンジする心と新たな出会いに心をときめかす、そして社会の不正や不条理に憤る気持ちがあればもう少し青春と繋がっていられそうな気がした。
施設長 井 上 節

●令和6年3月

下記の作品は以前出版した「老人ホームの窓辺から」に掲載した作品である。
『12月の中旬、早朝まだ暗い内にコートの襟をたてて外に出ると、満月とおぼしき月が西の空に沈もうとしていた。そして、仕事を終えた夕方6時過ぎ、その月は東の空に位置をかえていた。小学校3,4年の頃、月食を観察しようと徹夜で空を眺めたのも、はるか昔のこととなってしまった。その当時、私はローラースケートに凝っていて、学校が終わると友達とスケート場によく通ったものだった。そんな私を見て、ある時母は「スケート場には不良がいるかも知れないから気をつけるのですよ」と心配そうに注意した。「そんなこと言ったって、誰が不良か分からないよ。だって不良という目印はしてないでしょ」と私は答えた。見えないものを見る眼の大切さに気付いたのはいつ頃からだろうか。経験を積む中で、少しは身についてきたとは思うが、最近見えないものの中に輝きを見出せたら、もっと豊かな人生が送れそうな気がしている』
24年前の作品だが、見えないものを見る能力は身に着いたのだろうか。最近は歳を重ねて得た経験が正しい判断の妨げとなったり感動する心の柔軟さもめっきり衰えてきているのではないかと危惧している。
施設長 井 上 節

●令和6年2月

正月、時間を持て余した私は本棚から学生の頃読んだ道草(夏目漱石)を取り出した。前回は筋書きを追うだけだったが、今回は漱石の世界に浸って読み進んだ。道草は神経衰弱(当時の病名)を患っていた漱石の自叙伝的な作品で幼い頃の養父母や妻鏡子等らとの実体験に基づく人間関係が語られているが、それぞれの心の内面が冷静な視点で描かれている。特に妻とのやり取りでは自身の自虐的な表現とともに妻の言動にも心理学者のような分析がなされている。さすが頭脳明晰な漱石ならではの考察と感心させられる点が多々あるが、漱石の死後妻が綴った「漱石の思い出」を読むと事実はかなり違ってくる。彼女を天下の悪妻だったとする一説もあるが、漱石の精神症状はかなり病んでいて、病の重い時には被害妄想が強く無理難題を押し付けたり激しい言葉を投げつけたりしたという。心配する実母は彼女に離婚を促したが「夫の言動は精神を病んでいるからです。夫が病気なら看護するのが妻の役目です。私以外に夫を守る人はいません」と涙を流して決心のほどを打ち明けたという。良妻の妻鏡子の存在が漱石の偉大な業績を産んだのかもしれない。そして漱石の心の病には、幼い頃父親から満足に受けられなかった愛の不足が起因しているのかも知れない。
施設長 井 上 節

●令和6年1月

ロシアによるウクライナ侵略が始まって約1年が経過した。また作年10月にはパレスチナ自治区を実効支配するハマスがイスラエルに大規模攻撃を仕掛けた争いでは双方で約2万人が命を落としたという。
人類の歴史は紛争の歴史といっても過言ではないが、私たちは文明の発達とともに自由権や生存権といった個々の人権を尊重する社会を目指してきた一方で第一次世界大戦の死者数が2,600万人と言われているように20世紀になってから戦争による犠牲者数は急激に増大していった。本来文明、文化の発達は科学技術の進展を伴って暮らしやすい社会の形成に結びつきそうだが、現状は各国が先端技術を取り入れた軍備の増強や防衛能力の強化に心を奪われている。
国際社会は第二次世界大戦の反省から、国際法の支配による平和を目指しているが、アメリカの影響力の低下もあって令和6年は世界各地で今まで以上に紛争や衝突が多発する恐れがあるという。その要因として歴史的背景や宗教の違いが考えられる。また攻撃しなければ攻撃されるといった不安心理や生活水準の不公平感も手伝っているのではないだろうか。民主主義も共産主義も目的は公平な社会の実現だが、実現までにはまだまだ多くの壁が待ち構えていることだろう。
施設長 井 上 節

●令和5年12月

 ここ数年多くの介護施設の食事提供は外部委託形式を採用していますが、「高齢者にとって食事は大切な楽しみの一つだから美味しい食事を食べて頂きたい」との思いから旭ケ丘の調理業務は開設以来外部委託せず直接行ってまいりました。そして原材料の調達にも拘り、国内製造の厳選されたかつお節を使用しただしパックはもとより、卵は地元の養鶏業者から高級料理店でも使用する卵を、お酒は料理酒ではなく地元の蔵元から銘柄品のお酒を仕入れています。また日本茶には高級深蒸し茶を採用しています。お陰さまで特養やデイサービスのご利用者様からは「旭ケ丘の食事は美味しい」といったお褒めの言葉をたくさん頂戴しております。こうした食事は管理栄養士が皆様の健康に気を配りながらその指導のもと先輩から引き継いだベテランの調理員の手によって作られていますが、旭ケ丘では素材の美味しさを引き出す「スチームコンベクション」を時代に先駆けいち早く導入した事も美味しい食事の提供に役立っているといえるかも知れません。
 最近食材費や水道光熱費等の値上がりが続き美味しい食事の提供には種々の問題が生じておりますが、旭ケ丘は今後もご用者様に喜んで頂けるような食事の提供を目指してまいります。
施設長 井 上 節

●令和5年11月

 以下は当ホームの職員(工藤 達也)が神奈川県主催の「介護に関わる作品展」で優秀賞を獲得した作品です。 『Aさんはいつも折り紙でチューリップを作っては他の利用者様へお渡ししたり、職員にも渡すのが日課となっています。渡す時に、「このゴミをもらってくれねぇか?」と、少し照れたような表情になります。定期的にチューリップをいただいている私は、「そんなに無理しないで大丈夫ですよ」と伝えました。Aさんは何事もないような表情で、「ボケの防止になるからよぉ、Bさんに教わったことをただやりたいんだよ」とのことでした。Bさんはひたすらにチューリップを折っては、みんなにお渡しして笑顔の花を咲かせる、「花咲かおばあちゃん」でした。そんなBさんの横にはいつもAさんがいました。いつの間にかAさんも、Bさんと一緒にチューリップを作っていました。Bさんがお亡くなりになってからも、Aさんの行動は相変わらず、今でもずっと折り紙を折っています。わたしの娘が幼稚園に通っていた時、Aさんに、「娘の幼稚園のお友達に、Aさんの作ったチューリップをお渡ししてもいいですか?」と尋ねると、嬉しそうに大量のチューリップをいただきました。登園時、娘にチューリップを持たせたその日の帰り、「みんながね、すごく嬉しそうにチューリップをもらってくれた」と、嬉しそうに話す娘を見て、私もすごく嬉しかったです。BさんからAさんに受け継がれた命を繋ぐ花。Aさんが作ってくださる花のおかげで私の周りでは、たくさんの笑顔の花が咲いています。』
施設長 井 上 節

●令和5年10月

 9月の声を聞くと、今年も又勝沼を訪れた。向かった先は10年以上前から馴染みのぶどう園で、生産・販売にあたる気さくなご夫婦の人柄に親しみを感じていた。当初訪れた頃は巨峰に代わってピオーネがそしてその後からかはシャインマスカットが登場した。 その間にもロザリオ、甲斐路、サマーブラック、我が道等と毎年新種のぶどうを紹介してくれた。そして今年は薦めに従ってバイオレットキングを買い求めた。こうして毎年新しい品種が作り出される背後には、生産者のひたむきな努力が隠されているのだろうが、その生産者の期待に応えて遺伝子を変化させるぶどうの柔軟性は私に生きるヒントを示しているようにも思えた。
 勝沼のぶどうと言えば私には忘れられない思い出がある。結婚したての頃、毎年お盆休みには義父の所有する蓼科の家を訪れた。まだ高速道路が開通していない時代で勝沼あたりは大渋滞を繰り返していた。その年もぶどう園に差し掛かると遅々として進まず、夏とはいえ辺りは暗闇に包まれていった。長時間の運転で尿意を我慢できなくなった私たちはぶどう園の脇に車を止めて用を済ませた。ほっとして見上げた先には鈴なりのぶどうの房があった。ちょうど種無しぶどうが出始めた頃ではなかったかと思う。そのぶどうの甘酸っぱさは泥棒をしてしまった後ろめたさとともに今も心に残っている。
施設長 井 上 節

●令和5年9月

 言葉は生き物と同じで、時代とともに変化するが、同時代に生きる私たちの間でも違って解釈する言葉や慣用句がいくつかある。
 例えば「取り敢えず」は辞書によれば「取るべきものも取らずに」ということから立ちどころに、何はさておきといった緊急の事態に対処する様子を表した言葉と記載されているが、日頃私たちは「取り敢えず〇〇にしようか」のように一先ずといった軽い意味で使っていることがある。ある友人は〖主治医から「取り敢えず胃カメラを」と言われたが直ぐに検査がさし迫った症状とは思わなかった〗と語っていた。このように解釈の違いから相手の真意が伝わらず仕事でミスしたり人間関係にひびが入ったりと予期せぬ結果を招いてしまうこともある。
 そこで下記に意味を間違えやすい語句をいくつか挙げてみることとする。

*穿(うが)った見方 〇本質を見抜く見方 ×ひねくれた見方
*王道 〇安易な方法 ×お定まりの方法
*割愛する 〇惜しみながら放棄する ×必要のないのを省略する
*気の置けない人 〇気を使う必要が無い人 ×気を許せない、油断できない人
*潮時 〇ちょうど良い時期 ×物事の限界、これ以上無理と判断した時期
*他山の石 〇戒めにすべき他人の失敗や間違え ×手本にすべき他人の失敗や行動
施設長 井 上 節

●令和5年8月

 20年以上ドイツで暮らす娘夫婦が3人の子供を連れて1週間ほど里帰りした。孫たちに会うのは7年前私がドイツを訪れて以来のことだった。13歳になった双子の姉妹は少女から大人になりかかる年齢で、以前ドイツを訪れたとき、かくれんぼ等して遊んだ面影は消えていた。またブランコに足が届かなかった末娘もたくましく成長していた。滞在中孫たちは、娘や妻といくつかの観光地を訪れたが、私は鎌倉見物に同行した。小町通りから鶴ケ丘八幡宮そして大仏とゆとりある計画で臨んだが、歩道を挟む土産屋の前で孫たちの足は止まりがちだった。特に脇道で見つけたかんざし屋さんに双子の娘は釘付けとなった。あれこれ迷ったあげく選んだかんざしを挿した容姿はほんのり大人の雰囲気を醸し出していた。その後私たちは由比ガ浜にも行った。海水浴場から少し離れていたせいか人影はまばらだったが、裸足になるとすぐに海に向かって走り出し、膝まで浸かりながら打ち寄せる小波と楽しそうに戯れていた。
 私は日頃孫たちの存在は人生のおまけというか、銀行預金の利子のようなものと考えている。褒められた子育てでなかったにも関わらず、孫たちの健康的な姿を眺めているうちに、私は娘から本来受け取る以上の褒美をプレゼントされたのかもしれないと感謝する気持ちになっていった。
施設長 井 上 節

●令和5年7月

 「天声人語」の筆者は、若者達が<ボロクソ良かったよ>と語っているのを耳にして驚いたという。「全然いいよ」と肯定的な使い方を耳にすると不快に感じることが私もある。しかし明治時代に結ばれた日韓併合条約では「全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」と肯定的に使われていた。また夏目漱石や芥川龍之介といった文豪の作品中にも「全然」を肯定的な言い回しで表現されている箇所がある。ある説によると「全然」は江戸後期に中国語から入ってきた比較的新しい言語で日本語として定着するのは明治40年代以降になってからで、当初「全然」は否定的にも、肯定的にも使われていたようである。「全然」の使い方が時代によって変化したように言葉の意味が変化することもある。例えば枕草子に出てくる「いとおかし」も当時は趣があるという意味で使われていた。こうして考えると日本語が乱れていると目くじら立てても過半数の人が使えばそれが正しい日本語として認可されていくのではないだろうか。
 話は少し脇道にそれるが、百人一首に「逢い見ての後の心にくらぶれば、昔はものを思はざりけり」という歌があるが、当時の「逢い見て」には男女が契りを交わすとうい意味があるという。そのことを知ってこの歌を詠むと時の流れに想いを馳 せる作者の心情が鮮明に伝わってきそうである。
施設長 井 上 節

●令和5年6月

 これは今年5月中旬に開催された旭ヶ丘の開所記念式での私の挨拶の要旨です。〖今年のテーマは、【人生に幸あれ!和から輪へ】です。皆様方は戦後敗戦により物資の不足する中、一生懸命働いてきました。そのお蔭で私たちの生活は豊かになりましたが、皆様の得たものは物質的な豊かさだけでなく、長い人生経験を経て人との関わり方を学び互いを尊重し思いやる気持ちの大切さを会得してきたのではないでしょうか。四苦八苦とか七難八苦とか言うように、人生には災難や苦しみが満ち溢れていますが、幸せはどこにあるのでしょうか。
 山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言う
 あー 我ひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみ帰りきぬ
 山のあなたのなほ遠く 幸い住むと人の言う
 これはカール・ブッセ(上田敏 訳)の詩ですが、なほ遠くに幸いはあったのでしょうか。私は幸せは自らに求めても得るのは難しく、相手の幸せを願う気持ちがあったとき自らも幸せに出会えるのではないかと思っています。皆様は縁があってここで生活するようになりました。それぞれ考え方に違いがあっても、聖徳太子が「和を持って貴しと為す」と言ったように和を求める気持ちが輪になったとき、生活しやすい場所となって皆様一人ひとりに幸いが訪れるのではないでしょうか。
施設長 井 上 節

●令和5年5月

 東京の山谷には 身寄りのない人を受け入れる入所施設があるという。入所者の多くは日本が高度成長期を迎えた時代に貴重な戦力として地方から都心へと吸い寄せられた人達で東京タワーの建設に関わった人もいるという。しかしその中には歳を重ねるうちに仕事を失い、路上生活を余儀なくされた者もいた。また、元ヤクザとか刑務所帰りと社会の嫌われ者だった人もいたが、この施設で死を迎えたとき「今まで誰からも相手にされなかったけどここでは自分の存在を認めて貰えた。スタッフの接し方に愛を感じた。」と感謝の言葉を残して死んでいったという。このように歩んできた人生の過程がどうであれ死を迎える際に穏やかに感謝する気持ちを持てたら幸せな人生だったといえるのではないだろうか。
 ユニセフの親善大使を務めるなど福祉に情熱を注いだオードリ・ヘップバーンは「私たちには生まれたときから愛する力が備わっています。しかしそれは筋肉と同じで、鍛えなくては衰えてしまうのです」と語っている。誰もが心に留めたい金言だが、特に高齢者介護に関わる者にとっては愛する力を鍛える事が利用者の尊厳に気を配ったケアを行っていく上からも重要だと言えそうだ。
「オードリ・ヘップバーンの言葉」(山口路子/大和書房)より引用
施設長 井 上 節

●令和5年4月

 長い間高齢者の介護に関わって来たある人によれば認知症の介護には「想像力」と「創造力」が欠かせないという。認知症の原因と言えば、アルツハイマー病などの脳疾患が思い浮かぶが、高齢者の様々な症状はそれだけでは説明不十分で、むしろ原因の多くは普段の生活の中に見出すことができるという。住み慣れた場所の移動など日常生活における環境の変化、配偶者との死別などの人間関係の変化や歩行困難など身体的な変化がきっかけにあげられるという。したがって、徘徊や暴力行為などの「問題行動」にも脳疾患以外の原因を考える必要があるという。そこで介護者は「想像力」を働かせてその原因がどこにあるかを追求し、さらに「創造力」を発揮して「問題行動」とどのように付き合っていくか工夫する事が求められるという。例えば「会社へ行かなければ」と訴える高齢者は、今の老いた自分を「本当の自分」とは思えず、若い時代に回帰することによってかつての自分を取り戻そうとしているのかも知れない。介護者はそうした行為を「問題行動」の奥に潜んだ無言の「訴えかけ」として理解し受容すること、さらに創造力を働かせてその対応を工夫する必要があるという。そのために介護者は独りよがりの思い入れや先入観の頼らず、高齢者の生活歴に視点を置いた上で、その価値観を受容する姿勢が求められるのではないだろうか。
施設長 井 上 節

●令和5年3月

 今から30年以上前、息子が中学生の頃だったろうか。年の暮を迎え、部屋の片づけをしていた私はファミコンで遊ぶ息子に向かって「お父さんはいつもお前の為にいろいろしてあげている。こういう時は遊んでないで手伝ったらどうか」と少し強い口調で嗜めると「お父さん。お父さんは日頃人に親切にしてあげても見返りを求めてはいけない。と言っているよね」との言葉が反ってきた。一本取られてしまったが、「その通りだけど、困っている人を見たら自然と手を貸したくなる。そんな気持ちになることも大事だ」と彼に伝えた。
 五木寛之氏はある本の中で「ボランティアとは人のためにするのではなく、困っている人を見たら手を貸さないと居心地が悪い。自分に不利になることでも手を貸すことで自分自身がすがすがしい気持ちになる。それがボランティアというものではないだろうか」と語っていた。
人とひととの関りは、価値観や歩んできた経験の違いからすれ違いが生じることがある。しかし職場でもお互い気を配り、支え合う気持ちで仕事に取り組んだら、「情けは人の為ならず」という諺にあるように美味しい果実を得られるかも知れない。営利企業はさておき社会福祉法人ならその土俵は作りやすいのでないだろうか。
施設長 井 上 節

●令和5年2月

 これは私が勤務する老人ホームでの利用者に向けた新年の挨拶である。
『新年おめでとうございます。朝家を出た時の気温は0度で車のハンドルの冷たさに身が引き締まりましたが、快晴の下静かな新年を迎えることができました。
 昨年はロシアのウクライナ侵攻や知床の遊覧船の沈没事故等悲惨な出来事が沢山ありました。皆様自身にもつらかったこと等色々あったと思いますが、年の初めにあたり、去年を振り返りながら、今年してみたいこと何かあるかなと考えてみてください。今朝出がけにラジオを聞いていると、昨年日大の理事長に就任された林真理子氏が「歳とともに1年を早く感じるのは何も無く日々を過ごすからで、いろんなことに興味を示しチャレンジしていると、毎日が充実していて長く感じられる」と語っていました。私たちも「今年やってみたいこと」を見つけて有意義な日々を過ごせたら良いですね。さて、今日のお昼のおせち料理は管理栄養士さんや調理員の方々が心をこめて作りました。もし美味しかったら「美味しかったよ」と声をかけてあげてください。人は誰でも他人から褒められると嬉しいものです。そして誰にも良い点はあります。お互い良い点を見つけ褒め合って過ごすと健康で充実した1年を送れるような気がします。そんな1年となりますよう願っています。』
施設長 井 上 節

●令和5年1月

 2月に始まったロシアによるウクライナ紛争、北朝鮮の度重なるミサイル発射や中国の南シナ海問題等不安に満ちた今年が終わろうとする中、岸田政権は敵地攻撃能力を備えた防衛費の大幅な増額を決めた。朝日新聞の全国世論調査によれば、「敵基地攻撃能力」の取得について賛成は56%になっているという。社会情勢を考えれば当然な気もするが、反って悲惨な結果を招く引き金となることはないだろうか。この防衛費の財源には法人税の増税を当て込んでいるというが、技術革新のための研究開発費の増額は視野に入ってないのだろうか。
 ここ20年間、日本の研究力低下が現実味を増す中、若手研究者らの間では中国に渡る「頭脳流出」が起きている。国の調査によれば、中国の論文の総数はここ数年で米国を抜き世界1位になった。一方の日本は年々順位を落とし今年はついに上位10カ国から転落したという。科学技術立国を掲げる日本にとっては研究力の低下は国の趨勢に係る問題である。国力の発展のために防衛力の強化を図るのも必要な事に違いはないが、国力の発展には、武田節の一節「人は石垣、人は城」にあるように人への投資がまず一番に求められるのではないだろうか。
施設長 井 上 節


●過去のつれづれ草

過去のコラムを1年ごとにまとめました。
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